*注意書き
・デュースがモブ女性と交際する表現があります。
・シルバーがずっと嫉妬しています。苦手な人注意。
以上大丈夫な方はスクロール↓
「シルバー先輩、僕……実は、彼女できたんです!」
「そうなのか、おめでとう」
つきり、と胸が痛み、硝子が軋んで、砕け散るような音がするのが分かった。
これは、始まる前から終わった俺の、淡い恋の話だ。
始まりは、星の降りそそぐ夜のこと。星送りの祭りをきっかけに、デュースとはよく話すようになった。廊下ですれ違ったとき、運動場で偶然出会ったとき、部活中、デュースはいつも大きな声でハキハキと挨拶をして、懐っこく駆け寄ってきてくれて、その態度を俺は好ましいと思っていた。
それでもまだ、ただの可愛い後輩だと思っていた……はず、だった。あの日、あのときまでは。街中に流れる恋の歌も、友人の相談も、俺とは別の世界の出来事だとばかり思っていた。
麓の街に買い出しをする用事があり、出かけていた俺は、偶然にも同じように麓の街までひとりで買い出しに出ていたデュースと一緒になった。せっかく会ったのだから、どうせなら一緒に買い物をして行こうということになり、あちこちの店を回りながら談笑する、穏やかな時間を過ごしていた。
それで、分かりやすい参考書を買いたいとデュースが言い、それならばと去年受けた授業内容を知っている俺が、より良いものを選ぶ手伝いができればと二人で本屋に寄った。
そのときのことだった。デュースは急に、何かに目を奪われた様子を見せた。何か珍しいものがあるのかと思ってそちらを見ると、カウンターに立つのはひとりの女性。長いブラウンの髪を揺らすその人は、俺たちよりも、少しだけ年上に見えた。
それで、もう一度デュースの横顔を見たら、分かった。デュースの態度が急におかしくなった理由が。夢中でその女性を見つめるデュースの、恋に落ちた横顔、きらきらした輝きを持って女性を見つめるデュースの瞳に――俺は、胸の高鳴りと、戸惑いのような心の患いを覚えたから。見慣れていたはずの横顔が、急に、可愛らしく魅力的で、眩しく思えたんだ。
心の内に、馬鹿らしいことだと自分を嗤った。好きだと思ったきっかけが、それを自覚した理由が、他の誰かへと恋に落ちた瞬間の横顔だなんて。けれど、同時に思った。一度でも、好きだと思った相手には……幸せでいてほしい。幸せに、なってほしい。たとえその相手が、俺ではないとしても。
だから、デュースに言った。
「デュース」
「は、あ、はっ……はいっ!? な、なんですかっ!? あ、すいません待たせちゃって……っ!」
「好きに、なってしまったのか」
「へあっ!?」
デュースは真っ赤になる。ああ、なんて分かりやすい奴だろう。つきりと胸の痛む音がしはじめた。……その瞳に映ったのが、俺なら良かったのに。だけど、お前はこれから、あの女性と幸せになれる、そのはずだから。だから、俺はきっとこの想いを諦めよう。どんなに時間がかかってしまっても。ただの、先輩として――応援していよう、その恋を。
「隠さなくてもいい。……応援してやる。俺は、お前の味方だ」
デュースの頭をぽんと撫で、ほら参考書だ、買ってくるといい。話すきっかけにできるだろう、といくつかの冊子を渡した。デュースは戸惑いながらも、ありがとうございますっ、と言って、跳ねるようにレジカウンターへと向かった。
カウンターの女性が、何やら緊張しながら話しているデュースへにこやかに対応する。そして何か、メモを渡しているようだった。戻ってきたデュースと本屋の外に出ると、礼を言われた。
「あのっ、ありがとうございます、シルバー先輩っ!」
「俺は何もしていないが……」
「い、いえ、その……っ。シルバー先輩に背中押してもらえたのに、何も勇気出さないのも、って思って連絡先聞いたら、教えてくれたんですっ! だから、あの、応援してくれてありがとうございますって、それだけ言いたくって!!」
「……ああ」
そうか。俺が……きっかけを、作ってしまったのか。なら、これから……コイツとあの女性は、うまく行くのかもしれないな。心に浮かび始める淀んだ気持ちを、デュースには見せないように、隠しておけるようにと平静を心がけ、答える。幸い、俺は元々口下手で、感情が顔に出る方ではない。こうした痛みへの誤魔化しなら、いくらでも効くはずだ。
それに、何度だって自分に言い聞かせるが、好きだと思う人には、幸せになってほしい。たとえ、隣に立つのが俺でないとしても。その気持ちは本心で、変わらないことだ。
「お前が、良い方へ進んでいけるといいと思う。その手伝いなら、いくらだってしよう」
「本当ですかっ!? じゃ、じゃあ……っ、あの。これからも、その……たまに、相談とか乗ってくれると、嬉しいんですけど……」
それはさすがに甘えすぎですかね、とデュースは笑う。俺の胸は、つきり、つきりと痛む。今でさえこんな状態になるのに、恋の相談になど乗ってしまえば、きっともっと俺の心は軋む音を上げ、痛むことだろう。それでも――デュースにとって、頼れる先輩でありたかった。その座くらい、失いたくなかった。いずれ、いつか諦めようと決めているのに、未練たらしく。
いや、むしろ、良い機会だと思った。デュースの恋がうまく行くのを詳細に聞けば、きっと、俺の心も満足して、そのうち諦めがつくだろうと。そんなことさえただの言い訳かもしれないが、俺の答えはひとつだった。
「かまわない。親しい友人には言いにくいことでも、俺なら聞いてやれるかもしれないからな」
「あ……、ありがとうございますっ!」
それから、時折……デュースから、恋愛相談をされるようになった。
まず、相談内容は、もらった連絡先に何を書いてメッセージを送ってみれば良いんだろう、ということから始まった。昼休みの中庭で、作戦会議をする。当然、胸の痛みは消えていない。……とはいえ、まだ始まったばかりのことだ。デュースの恋路が、この調子でずっとうまくいくとも限らない。……俺は何を期待しているんだ? デュースが幸せになれるのなら、共にいるのがあの女性でもかまわないと心に決めたというのに。
邪な心を振り払って、デュースに指南する。
「まずはやはり、自己紹介から、じゃないか? それと、自分が何者かも伝えた方がいいだろう」
「あ、そっか! えっと、初めまして、僕はデュース・スペードです、本屋で参考書買って、連絡先聞いてったやつです……って感じでいいのかな……」
「良いんじゃないか? 相手の方も連絡先を教えてくれたというのなら、悪い気はしていないのだろう」
「だ、だといいんですけど……。たまに、フェイクの連絡先教える人もいるよ、ってエース言ってたからな……」
その言葉が、少し胸に引っかかる。せめて、頼るのは俺だけにしてほしいという気持ちや、相談先が他にあるのなら、そちらに行ってくれれば、こんな胸の痛みなど無視できるのに、というような気持ちが混ざりあって。
「エースにも相談したのか?」
「い、いえ! 相談っていうか、なんか、見られてたみたいでからかわれただけです……。真面目に相談してるのは、シルバー先輩だけですよ」
「……そうか」
つきり、つきりと胸が痛む。何度でも、痛む。頼りにされる嬉しさと、その内容への悲しみが同時に心を襲ってくる。
「はい。ホント、こんな話でも、ちゃんと聞いてくれるのって、シルバー先輩くらいしかいないので……」
俺だけを頼ってくれて、嬉しい。……他のことで頼ってくれたなら、もっと嬉しかったのに。などと、俺はいったい何を欲しがっているのか。ほんの少しだけ、些細なデュースの日常に関わることができる、そんな現状でも十分じゃないか。十分だろう? 隣にいて、喋ることができて、先輩として慕われて、頼られて。そんな、今、目の前にある分だけの幸せに、満足しないでどうするんだ。
何せ、恋敵と呼べる相手は、一目でデュースを恋に落としてしまうくらい、魅力的な……俺とは何もかも違った、女性だ。共通しているのは、デュースよりも年が上なことくらいだろう。それ以外は、男であること、女であること、身長、見た目、身体、声、表情、きっと性格さえ、何もかも違ったんだ。仮にあの女性がいないとしたって、デュースの好みがそうであるのなら、俺になど目もくれないことだろう。
そんな考えばかりよぎっていることを、デュースには悟られないように、ただ、当たり前のように答える。
「俺が、何か力になれているのなら、良かった。……話を聞いてやることくらいしかできないが」
「十分ですよ!」
これからもよろしくお願いします、とデュースは無邪気に笑った。ああ、と俺は答えた。デュースの、こうした明るい笑顔は好きだ。だが、時としてそれはとても残酷に俺の心に刻み付けられた。
それからデュースは、うんうんと唸りながらようやくメッセージを作ったあと、送信ボタンを……押さなかった。
「送らないのか?」
「お、送りたいんですけど……っ。エースの言うように、フェイクの番号だったらとか、やっぱりこのメッセージ変じゃないかなとか思うと、なかなか勇気が出なくって……っ!」
「……そうか」
短い文章ひとつ送る勇気も出ない、のだな。デュースは、恋をしている。一生懸命に、純粋に。初めての、可愛らしい恋の芽を育てている。迷いなく、間違いなく、俺の目の前で。俺ではない、別の女性に向けて。
「よ、よし! それじゃあ、あと5分だけ迷ったら……!」
「……」
デュースの手にあるスマートフォンをひょいと取り上げ、送信ボタンを押してしまう。
「送ったぞ」
「えっ!? お、送っちゃったんですか!?」
「返事が来る前に、昼休みが終わってしまいそうだったからな」
嘘だ。昼休みなんて、別に終わってしまっても良かった。デュースがずっといつまでもメッセージを送れなかったとき、都合がいいのは俺の方だ。いいや、都合が悪かった。俺が隣にいるのに、目の前でスマートフォンの向こうにある別の女性を意識し続けるデュースを、これ以上見ていたくはなかった。だから、送信ボタンを押したんだ。何を、面倒見の良い先輩のような面をしているのか……。俺の心は、濁り、淀んでいる。
「それで、返事は来たのか?」
いっそエースの言うように、連絡先が偽物であれば、なんて考えも一瞬よぎる。だが、それはすぐに否定された。……何を馬鹿なことを考えたのか。俺の都合のために、相手が悪い行いをする者であって欲しいなどと思うのは、本当に愚かな考えだ。心を、強く保たねばならない。
「あ、え、えっと……き、来ました! 『これからよろしくね』だって……! よ、良かったぁ……!!」
「ほら、な。迷っていないで、さっさと送ってしまえば良かっただろう」
ホントですね、とデュースは笑い、絵文字も可愛いなあ、なんて呟いた。……俺は、わざわざスマートフォンのメッセージに絵文字をつけたり、しない方だ。そもそも、メッセージのやり取りすら……することは、少ないな。
頬を染めてスマートフォンのメッセージを見つめるデュースの横顔に、また、つきりと胸が痛んだような気がした。恋に夢中なデュースの瞳に、俺の姿は映らないから。
痛む胸を抑えようと目を閉じていたら、いつの間にかその日は眠ってしまっていたようで、ぼんやりとした夢を見た。デュースと思わしき人物の背中が、雨の中、ブラウンの髪の女性と寄り添って歩いている。デュースの肩は、女性側に多く傘を差しかけたせいで、濡れている。俺はそれを、後ろから見つめている。自分で差した傘と、もう一本の傘を腕に持って。ただ、黙って二人が歩いていくのを見つめていた。
昼休みが終わる頃になって、俺はデュースに起こされた。
「先輩、大丈夫ですか?」
「……何がだ?」
「いえ、あの。なんか……悲しい夢でも見てたのかな、って」
「どうして、そう思うんだ?」
ちょっと目元、濡れてたので、とデュースは言う。……恐らく、眠る直前に滲んだものだろうが……夢のせいだと思われている方が、都合が良いな。
「ああ。少し、悲しい夢を見たようだ」
ならもっと早く起こせば良かったですね、すいませんとデュースは言った。俺は、目元を拭い、本当に濡れていることに、驚いた。たったこれだけのことで、わずかとはいえ涙が滲んでしまうほど心が痛むとは思っていなかったから。……早く、慣れてしまわなければ。そうでなければ、デュースの恋がうまくいくまで、手助けしてやれない。
その日の夜、窓から見上げた星に願いをかけようとして、やめた。幸せになってほしいと祈りを捧げようと思ったが、今の俺の心の状態では、どうしても……あの女性とうまく行きますように、と。そう、その言葉を、心から唱えてやることがどうしてもできなかったから。デュースの望む幸せを邪魔するだけの祈りなら、しない方がマシだと眠りについた。
次に相談を受けたのは、デュースがいくらか彼女とメッセージのやり取りをしたあとのことだった。メッセージのやり取りは好意的で、今のところ関係がうまく行っているという話を、痛みの続く胸を抑えながら聞いた。不意につきりと胸に痛みが刺さり、涙がこぼれそうになったときには、その理由を知ってしまえば、デュースはきっと悲しい顔をするだろう、それが見たいか? と自分に言い聞かせることで、半ば無理やりになんとかした。
その甲斐もあってか、デュースはまったく俺の心の内には気付いていないようだ。……良かった。何度でも、デュースの言葉は気軽に俺の胸を刺すが、それでもデュースを憎らしいとは思わなかった。俺が勝手に好きになって、勝手に期待して、勝手に傷ついて、勝手に悲しんでいるだけなのだから、それでコイツ自身を憎むのは、お門違いというものだ。
「じ、実は……今度一緒に出かけることになったんですっ! 服とかはエースたちと買いに行こうって思うんですけど、ほら、エースはいつもオシャレなんで……、だけど……」
「だけど、なんだ?」
「……出かけた先で、その、エスコートだとか……うまくやれる気がしなくって……! 先輩そういうの得意そうだし、練習に付き合ってくれないですかっ!?」
「確かに、将来マレウス様にお仕えしたとき、他の来賓客への無礼にならないような礼儀として一応学んではいるが……学生向けではない。お前の役に立つかは分からないぞ?」
「それでもいいですっ、お願いします! ほんと、シルバー先輩だけが頼りなんで……っ!」
「……そう言われてしまっては、断れないな」
「ありがとうございますっ!」
それで、デュースと共に、デートの練習をすることになった。俺を彼女の代わりに想定して、デートコースを実際に歩き、うまくやれているかどうかをチェックする、らしい。なかなか、酷なことを提案するものだ。しかし、デュースに非はない。デュースは俺の気持ちなど、知らないのだから。だから、もし今、今日、俺がこの場で気持ちを伝えてしまったら、コイツはどういう顔をするか、なんて想像しても―― ……きっと、困った顔をさせてしまうな。酷いことをしたと、悲しい顔をさせてしまう。デュースにそんな顔をさせるのは、俺の本意ではない。困らせたくないんだ。俺が理由じゃなくてもいい。ただ、幸せで、笑っていてほしい。だから、俺は、俺に任されたことを、今は遂行するだけだ。
それに、……恋をしているデュースを見るのは、辛いが……同時に、その表情のひとつひとつが、いじらくして可愛らしいとも、思えてしまうからな。デュースの初めての恋の模様を、いちばん傍で見ていられる。それは役得、だろう? 誰か、そうだと言ってくれ。でなければ俺は、今すぐこの場を立ち去ってしまいそうだ。この、今日は楽しみにしてました、なんて明るい笑顔が、他の誰かに向けられるのをただ待つしかできないことを、自覚してしまえば。
「デュース。そんなに早く歩いてはいけない。相手にもよるが、女性は歩くのがゆっくりなことが多い。歩調を合わせなければならない」
「は、はいっ」
「ドアの前では早めに大きく一歩踏み出して、先にドアノブを持って女性を待つといい」
「な、なるほど……。勉強になりますっ!」
俺が知っている限りの社交知識をデュースに与える。ふと、今、恋路に慣れないそのままのデュースと初めてのデートをしているのは、あの女性じゃなくて俺の方なんじゃないか、と考えがよぎって、すぐに打ち消した。……相手にその気がないのなら、デートなどとは到底呼べないだろう。だから、あえてデュースにこう言った。
「……初デート、うまく行くといいな」
「はいっ! 僕、頑張りますね!」
……やはり、な。これだって初デートですよ、なんて言葉は、返りはしない。当たり前だ。デュースは俺のことを、ただの、付き合いの良い先輩だと思っているのだから。心が苦しくなって、デュースに手を伸ばし、抱きしめる。すると、デュースが慌てたように声をあげた。
「せ、先輩? どうしたんですか?」
「……女性を抱きしめるときは、これくらいの力加減にするんだぞ」
我に返り、冗談めかして身体を離してやると、デュースは安堵の息を吐いた。
「なんだ、もう……。急だったから、びっくりしました」
「ふっ、すまない。驚かせてしまったな。だが……そのうち本当にこういうこともあるかもしれないぞ?」
「えっ、そ、そんな……あります、か!?」
それが良いのか悪いのか、俺の行動をただのアドバイスの一環だと受け取ったようで、デュースはさほど気にしていなかった。俺はといえば、一瞬だけ叶ってしまった望み、デュースがそれを拒まなかった嬉しさに高鳴る胸を抑え、この鼓動がバレてしまわなかっただろうかと心配しながら、ただの先輩でいられるようにと平静を保つのが精一杯だったのに……。その温度の差に感じる悲しみさえ、今はただ、飲み下すだけだ。
初デートの練習の、帰り道。デュースと別れ、歩き出した俺は、ひとり歩く街の景色を見て、胸に切なさを覚えた。本屋の前を通りがかって、ブラウンの髪を揺らす女性を見かけて、きゅっと口を結んだ。……今日、デュースの隣を歩いたのは、あなたじゃない、俺だ。そんな、対抗心さえ燃やして。馬鹿なことだ。本当に、俺は馬鹿だ。今日、俺がアイツと出かけられたのだって、彼女と共に歩くための練習でしかないのに……。
街路灯が照らす街道を、楽し気に笑うデュースと一緒に歩いたことを思い出しながら、溜め息をついた。俺がこうして、アイツのことを想っているのと同じように、今頃きっと、アイツも彼女のことを想っていることが分かっていたから。
誰も、俺の想いには気付かない。あの女性も、デュースも。それでいい。それで良かった。つきりと痛む胸の音も、いい加減に聞き飽きた。
そして、とうとうその日は来た。明らかにそわそわした様子のデュースが、頬を染めて、上機嫌で、俺に言うんだ。
「シルバー先輩、僕……実は、彼女できたんです!」
「そうなのか、おめでとう」
つきり、と胸が痛み、硝子が軋んで、砕け散るような音がするのが分かった。ああ、とうとう。この日を待ち望んでいたようでいて、遠く、永久に来ないでほしいと思っていた日。
それが、来てしまったのだと痛感した。デュースの想いが通じ、他の誰かと恋仲になってしまうその日が。どうにかこうにか、笑顔を作る。俺は元々笑うのが下手だから、上手に笑えてなくても、不器用なだけだと思われるだろう。笑うのが下手で、本当に良かった。
「……うまくいったんだな?」
「はい……っ、たくさん相談乗ってくれて、付き合ってくれたシルバー先輩のお陰です、本当にありがとうございましたっ!」
「お前が、幸せになれたのなら……良かった」
くしゃりとデュースの頭を撫でる。へへ、とデュースは嬉しそうな笑みを浮かべた。それじゃあ、と俺は立ち去る。立ち去って、ずっと歩いて立ち去った先の、学園裏の森の奥で、心配して様子を見に来た動物たちに囲まれながら、涙をこぼした。
もしも、もし、俺があの日、アイツと共に本屋へ行かなかったら、もし、俺がもっと早く、アイツのことを好きになっていたのなら、アイツが恋に落ちるよりも早く、俺の気持ちを先に告げていたのなら、アイツの隣に立っていたのは、今頃俺だったんじゃないだろうか、そんなあらゆるもしもの想像と後悔が、一気に押し寄せてくる。……なんて、そんなことさえ、俺にとって都合の良い夢物語、ただの妄想だ。アイツが俺と恋に落ちてくれるのなら、今までにもう、何度も機会があったはずだろうに。すべてはそうしなかった、自覚すらできていなかった、俺の自業自得なんだ。だから、もう、彼女との幸せを祈る以外に、俺から彼にできることはないんだ。
足元に寄ってきた一羽のウサギを抱き上げる。
「良かったんだ……、これで。アイツが幸せなら、傍にいるのは、俺じゃなくてもいいんだ。だから、」
これでいいんだ、これで、と何度も、何度も同じ呪文を唱えた。それでも、次から次へと涙は湧いてきて、俺を心配して木の実や花を持ってきてくれた動物たち相手に、一言だけ弱音をこぼした。
「……おめでとう、って、言えた俺は、偉かったよな」
それから。デュースへの想いはまだ断ち切れないままだったが、恋愛相談も区切りがついて、顔を合わせる機会もぐっと少なくなった。きっと、今まで俺といた分の時間は、そのまま彼女のものとなったのだろう。……悔しいな。ああ、悔しい。
今頃、デュースは彼女と初めての経験をたくさん積んでいるのだろう。手を繋ぐ、抱きしめる、……キス、なんて。そんなことを想像する度に、俺の胸は何度でもまたつきりと痛んだ。
とはいえ、俺の気持ちもだいぶ落ち着いてきたようで、彼女へ取られてしまったデュースの時間を、素直に悔しいと飲み下せるようにくらいはなってきた。今まで、一緒にいすぎたんだ。この分なら、きっと、このまま顔を合わせずにいれば、そのうちアイツへの気持ちも薄らいでいくだろう。今はただ、時間が傷を癒してくれるのを期待するしかなかった。
そんなある日のこと。部活の帰りに、ジャックから声をかけられた。
「シルバー先輩、デュース見てないすか?」
「デュース、か? 見ていないが……何かあったのか?」
「今日、アイツ、部活に出てないんすよ。連絡もなしに……。こんなこと、今までなかったのに」
「急に体調不良になり、寮に戻っているんじゃないのか?」
「そう思ってエースに聞いてみたんですけど、部屋には戻ってねえ、って。スマホも連絡つかねえし、今日、雨降るっつってたから、外にいるなら、放っといて風邪引かせるっつうのも、なんか後味悪いんで。……それだけならまだしも、またなんか巻き込まれてるかもしれねえし」
そういうわけなんでどっかで見かけたら連絡ください、とジャックは立ち去る。俺は、セベクに少し遅くなると伝えてくれ、と言い、デュースを探しに、傘を持って夜の校舎の中庭へと向かった。なんとなく、そこにいるのではないかと思ったんだ。いないならいないで、無事であるならそれで良かった。それは俺の心配が、当たっていないということだから。
もう一度デュースに会ってしまえば、またきっと落ち着き始めた俺の気持ちは募るだろう。募った気持ちは、この身にまた、何度でも心を貫くような痛みを覚えさせるだろう。それでも、今、アイツがどこかでひとりで傷ついているのかもしれない、その可能性があるというだけで、俺はデュースを探しに走り出していた。
ぽつり、ぽつりと雨が降り始める。それなりの降り様になってきた雨が水たまりを作る中、デュースは中庭の茂みの陰に、体育座りでしゃがみ込んでいた。ここは、いちばん初めの場所。デュースがスマートフォンのメッセージに何を送ればいいかと迷っていた場所だ。俺は、俯いたままのデュースに傘を差しかける。
「……濡れていては、風邪を引いてしまうぞ」
「シルバー、先輩……」
デュースの声が、涙ぐんでいることに気が付いた。……こんな場所にいる時点で察しはついているが、尋ねる。
「何が、あったんだ?」
「何も……」
「何もないことは、ないだろう」
地面にできた水たまりで膝が濡れるのもかまわず、デュースの傍にしゃがみ込み、傘を差しかける。すると、デュースはますます俯いて涙をこぼしてしまった。
「なんでそんな優しいんですか……、僕、ほんと、情けねえ……」
「……泣かないでくれ。お前が悲しい顔をしていると、俺はどうしたらいいか分からない」
ポケットからハンカチを差し出し、デュースの目元を拭う。とはいえ傘を差し出し続けていた俺自身が濡れていたから、あまり意味のないことだった。デュースの手を引き、立ち上がらせてやる。すると、トン、と置くようにデュースは俺の肩に頭を寄せた。
「……フラれ、ました。最初は一生懸命で可愛いと思ってたけど、ずっとそんな感じばっかりで、だんだん飽きてきた、んだって」
「そんな……」
一生懸命なのは、デュースのいいところだ。それを、飽きた、だって? ……なら、どうして最初から恋人として受け入れ、付き合ったりしたのか。デュースの恋人というのは、そんな風に飽きたからと簡単に捨てられるような立場だったのか? デュースというのは、彼女にとって、一度、恋人という大切な存在とみなしたのに、そうも簡単な言葉であっさりと心を離せるようなものだったのか? なら、それに恋焦がれていた俺は、一体どうなる。俺なら、飽きたりしないのに。お前の目が俺を映してくれたのなら、もっと、お前の真面目で一生懸命で、ひたむきなところだって、大切にするのに。そんな、言いようのない妬心と、飽きたなんてそっけない言葉でデュースを簡単に傷つけられたことへの怒りが同時に湧いてくる。……俺の、大切な……俺の好きな子に、なんてことをしてくれるんだ、と。
「もう連絡しないで、って言われて、メッセージ送っても、返信なくて……」
「本当に、もうやり直せないのか……?」
俺にだって、もし俺がデュースの隣に立てたらと夢想することは何度もあった。今だって、俺を選んでくれれば、とは思う。だが、それはただのそうであれば良かったのにと思い描いたもしもの理想であって、こんな風に、デュース自身の幸せが壊れてくれと望んでいたわけでは、けしてない。だから、星に願うことすらしなかったのに。
「……やり直せない、ですよ。だって、聞いたんだ、僕。フラれた理由、僕に飽きたって、それだけじゃなくって……」
「まだ、何かあるのか?」
デュースに尋ねると、デュースは顔をくしゃりと歪めて、ごめんなさい、と何度も言った。
「……ほんとは、あの人、シルバー先輩のことが、気になってたんだって。先輩と一緒にいた僕と仲良くなれば、先輩とお近づきになれるかもって思ってたんだって……。でも、先輩と僕は寮も違ってて、あの日偶然一緒にいただけってこと聞いたら、急に……っ」
思わず、ひゅうと息が詰まる。……俺の、せい? デュースの恋が、散ってしまったのは……、いや、恋が、叶った……と、思っていた、違う、思わされていたのも、すべてが、元は、俺に近付くため、だった? 目の前が真っ暗になりそうになる。俺の、いや、俺とデュースの、あの努力の日々はなんだったんだ?
あの、いじらしくも愛らしい、丁寧に育てていたデュースの恋心は、ただ、弄ばれていたというのか?
デュースも俺も、雨でびしょ濡れになりながら、ただ、ショックを受けている。どう、すれば。デュースに、なんと言って詫びれば――そんな思考を、デュースの慟哭が遮る。
「先輩っ、こんなの、ほんとにひどい、最低の八つ当たりだって分かってるんですけど……っ! それでも、あんなに話聞いてくれて、手伝ってくれた先輩のこと、なんで、どうしてって思いそうになってる……っ! そんな自分が嫌で、苦しくって……っ!!」
「……デュース」
俺は、傘を放ってデュースを抱きしめた。濡れてしまう、なんてもう今さらだ。俺の心身など、今はどうだっていい。ただ、目の前で悲しみに暮れ、苦しみに囚われるデュースを放っておくことだけは出来なかった。
「落ち着いてくれ。気持ちは、とても分かるから」
「……先輩に、何が分かるっていうんですか……っ! 先輩は、あの人の気持ちだって、手に入れられてるのに……っ!」
「いや、分かる。俺も、そうだから」
「え……?」
「……俺にも、好きな人がいるんだ、デュース。その人には、他に好きな人がいる。俺はその人のことを、嫌ってしまうし、同時に、好きな人の好きな人のことを、嫌いになりたくないとも思う。お前も、そうなんだろう」
「先輩、も……」
デュースに、その好きな人がお前なんだ、と告げることはしなかった。それを今告げたところで、きっと余計に苦しませてしまうだけだから。
「ああ。……そうだ。だから、お前がもし、それで俺のことを嫌いになったとしても……仕方のないことなんだと、ちゃんと分かってやれる。だから、お前は、俺のことで……そんなに苦しまなくていいんだ。今はただ、俺に当たって、悲しんでもいい。他の誰でもない、俺が許そう」
「うっ……、先輩、なんで、そんなに優しいんですかぁ……っ!」
嗚咽を上げるデュースの背中を撫で、ひとしきり落ち着いたところで身体を離してやると、デュースは尋ねた。
「すいません……落ち着きました。……えっと、先輩の、好きな人、って?」
「……心配せずとも、お前の好きな彼女とは違う。なんなら、彼女にそれを伝えたっていいんだぞ。俺は、他に好きな人がいるから、あなたを選ばない、と。……それも、お前がよりを戻せるきっかけにはなるかもしれないだろう」
そう答えると、デュースは、そうですね、と一言だけ言った。それから、二人、びしょぬれなままで寮に戻った。……デュースを幸せにするどころか、嫌われてさえしまった。つきり、つきりと針を刺すように痛んでいた胸は、今はもっと重く、ざくりと、ざくろの実を半分にしたように、ぱっくりと斬られたような心地さえしていた。それでも俺は、デュースに自分を嫌ってもいいと告げたことを後悔してはいなかった。それで愛した人の心が楽になれるというのなら、安いものだ。そのはずなのに、まだ胸の奥はずきり、ずきりと鈍い痛みを募らせていた。
それから、デュースとは疎遠になるのではないかと思っていたのだが――俺の予想は外れた。
「シルバー先輩っ! ……聞きたいことがあるんですけど!」
「……あ、ああ」
2年生の教室に、突如嵐のように現れるデュース。俺は驚いたが、この呼び出しに応じた。
「いったい、どうしたんだ?」
「その……。昨日のことは、すいませんでしたって言いたくて……」
「それなら、気にしなくても良い。むしろ、お前も風邪を引かなかったか心配していた。傘を持ったのに、結局濡らしてしまったから」
「僕なら平気ですっ! 先輩も大丈夫でしたか?」
「見ての通りだ」
良かったです、とデュースは言った。
「それで、あの……」
「ああ」
聞きたいことがある、と言っていたな。本題に入るのだろうか?
「先輩の好きな人、のことなんですけど!」
「……ああ」
まさか本人にそう尋ねられるとは。……一体、何を聞かれて、なんと答えれば良いのだろうか?
「できたらでいいんですけど……っ、もし、どんな人か教えてくれたら、協力したいと思って!」
「……協力?」
「はい! 僕、昨日の夜よく考えてみたら、今までずっと先輩に頼りっぱなしで……。こういうのって、フェアじゃないって気付きました! だから、次は僕がシルバー先輩の相談に乗る番だ、って!」
あ、でも先輩がそうしたかったらでいいですからね!? とデュースは慌てて言う。……自分のことはいいのだろうか?
「お前自身のことは、もういいのか? それに、俺のことは……嫌いになったのではなかったのか?」
「まさか! ……雨の中ずぶ濡れになって探しに来てくれて、慰めてまでくれた先輩のこと、嫌いになんかなれませんよ。それに、よく考えたら、そんな恰好良くて優しい先輩に惚れちゃうのは当たり前のことだよな、って思いましたし……。未練、完全にないって言ったら嘘になりますけど、昨日存分に泣かしてもらったお陰か、僕も思ったよりは吹っ切れました! ……あ、先輩のことは伝えてないです……。なんか、先輩のこと勝手に伝えてヨリ戻すのも、ズルい気がして。……僕はちゃんと、彼女のことはもう、縁がなかったんだって、このまま諦めようと思います……」
「……そうか。お前の心が、重くないのなら良かった」
デュースの言葉に、心が軽くなる。すっかり、嫌われたものと思っていたから。刻まれた心の傷が、みるみるうちに塞がっていくような気がした。……ああ、俺はまだ、コイツの言葉ひとつで、一喜一憂してしまうんだな。
「はいっ! なので、先輩も遠慮せず、言いたいことあったらガンガン相談してくださいっ!」
僕、頑張って答えるので! と、デュースは息巻いている。……そうか。吹っ切れたのか。未練がないわけではないそうだが……。今なら、告げてもいいだろうか? デュースを苦しませず、隠していた気持ちを伝えることができるだろうか。
「なら、ひとつ質問するが……。これからお前は、新しい恋に向かうということか?」
「え? あ、まあ、ハイ。そういうことになる、のかな? 次、どうなるのかは、まだ全然分かんないですけどね」
「それと、先ほど……俺の好きな人が、どんな人なのか教えてくれたら、と言ったな」
「はい! 言いました!」
デュースは元気に返事をする。これは微塵も、自分のことだなんて思っていないな。どうしたものかと、俺は思案を巡らせる。ただ好きだというだけでは、デュースはすぐに思い至ってしまうだろう。今まで、俺がどんな気持ちでいたかということに。だから、冗談のように……すぐにはそのことに気付かれないように、気持ちを伝えたい。傷つけたくないが知ってほしいというのは、俺の我儘かもしれないが、それでも、もう後悔はしたくなかった。
「……デュース。鏡を持っているか?」
「ハイ、一応持ってます。普通の鏡ですけど……」
「貸してくれ」
「はい」
鏡に、魔法をかける。ただ、鏡面を綺麗にしただけだが……。なんらかの魔法がかかったようには見えるだろう。
「その……、この鏡に、俺の好きな人の姿が映る魔法をかけた。ここでは誰かが聞いているかもしれないから、誰が映っているか、これで見てみてくれないか?」
「分かりました!」
そして、鏡をデュースに返す。すると、え、と声をあげたデュースは驚いた顔をして、顔を真っ赤にさせた。……からかい甲斐のある奴だな。
「せ、先輩! これちゃんと魔法かかってます!?」
「……ふっ……。お前は本当に、反応が面白いな」
「あ! いたずらですか!? 先輩、いたずらしましたね!?」
デュースは拗ねて頬を膨らませている。すまない、確かに嘘を吐いたと俺は認めた。
「鏡にかけたのは、ただの曇り止め……、鏡面が綺麗になる魔法だ。嘘を吐いてすまない」
「ったく……。で、本当は誰なんですか?」
呆れた顔をするデュースに、俺は言う。
「嘘を吐いたのは、魔法の中身だけだ。好きな人の姿が鏡に映ったのは、本当だぞ」
そういうのはいいですから、とデュースは言う。しまった、慣れないことをしたせいか、本当に冗談だと思われてしまったな。……まあ、それくらいでちょうどいいか。ずっと言えずに抱えていた想いを、今、この場で言葉にしてしまおう。
「嘘や冗談の類じゃない。ずっと、お前に好きな人があるからと思い、黙って言わないでいたが……。今度は、他に持っていかれる前に言っておきたい。俺の好きな人というのは、本当に、嘘偽りなく、お前のことだ。俺はお前が好きだ、デュース」
「え、う、嘘……」
「……だったら、雨の中探しに行ったり、デートの練習に付き合ったり、すると思うか? ……俺だって、誰にでもどこまでも優しいわけじゃない。ああまでしたのは、他でもない、お前だったからだ、デュース」
そこまで言えば今度こそ、デュースは顔を真っ赤にして、口をぱくぱくと開け閉めさせる。ああ、良かった。どうやら俺の存在も、デュースの目にまったく映らないというわけでもなかったらしいな。
「返事は、まだしなくていい。ただ、俺に振り向いてもらえるよう努力はするから、その覚悟はしておいてくれ」
協力してくれるんだろ? と念を押せば、デュースはしどろもどろになりながら、真っ赤な顔を手で押さえて、困った様子を見せるばかりだった。
俺は、ようやく言葉にできた気持ちと、それを行動へと移せるようになったことに、今はただ喜びを覚えていた。
*おしまい
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