SKETCH

※死ネタです。
※なんでも許せる人向け。
※シルバーひとり部屋設定
※ほんの匂わせ程度のスカリー(とセベク)要素あり。

 ↓大丈夫な方はスクロール

 

 

 

 絵を描くことになど、深く慣れ親しんではいなかった。
 それでも今、目の前に真っ白なキャンバスがただ黙って立っているのは、俺の手でお前のことを描くためなのだろう。
 色鮮やかなペンシルを手に持つと、近くて遠い記憶が脳裏に流れ込んだ。

『いなくならないでくださいね、先輩』
『お前こそ、な』

 冗談めかして言い合ったいつかの日の約束を破ったのは、俺じゃなかった。

 

 

 ――ある日。俺は、学年がひとつ下の後輩、デュース・スペードと、交際を始めることになった。好きだと想いを告げられて、未だ確かな好意とは言えずとも、それを何か、断りたくないような気持ちが俺にはあって。だから、その気持ちを伝えて、はじめのうちは試しにでいいからと交際を始めていて。
 そして、愛し始めた。愛し始めていた。デュースという一人の存在が傍らにいてくれる日常を。
 隣あって座ったときの手と手と同じように、互いのささやかな気持ちを少しずつ重ねていく、愛おしく、繊細な日々を手に入れた。

 彼の訃報が届いたのは、その矢先のことだった。

「は……?」

 初めて報せを聞いたとき、俺が発せたのは、その一言だけだった。
 セベクが、あまりにも慌てた様子で、お前こんなところで何をしているんだ、まさか知らないのか、なんて言うから、なんだ、落ち着いて話してみろ何があったんだ、と答えたら、告げられたのが、デュースの死。今度は、俺が冷静になれない番だった。
 目撃者の言葉によると、事故があったのは校内でのことだった、らしい。不良生徒の一人と言い合いになり、揉み合いに発展した。デュースは、その揉み合いをいなして、喧嘩になる前に立ち去ろうとしたが、そのとき、肩を掴まれそうになって。足元のバランスを崩して、階段から転がり落ちて。そして、打ち所が悪く、そのまま……意識を戻さなかった、そうだ。

 ――どうして。あまりにも、早いだろう。これからアイツは夢を叶えて、母君と恩人に、立派な警察官になった姿を見せる仕事があったんだ。やるべきことがあったんだ。俺と、幸せになるはずだったんだ。なのに、ああ、神よ。なぜ、貴方はそんなにも気軽に、まるでゲームのボタンひとつを押すように、いとも簡単に残酷な結末を選べてしまうのか?
 デュースの葬儀に出て、眠るその身体がまぎれもなくデュースのものであることを確かめて、頬を撫でた。
 それが、ただ冷たくなっただけで慣れ親しんだ感触とまるで同じなことに気づいて、涙が一筋こぼれた。

 それから、夜。学園で過ごした間のデュースの遺品整理を手伝っていたから、部屋に戻るのが遅くなった。もはや、部屋に入るなりベッドに倒れて、泥のように眠りたいと思った。
 そう思っていたのに。部屋に入った瞬間、俺の目には信じられない光景が飛び込んできた。俺の部屋の窓際に立って、景色を見回しているのは。
「デュー、ス……?」
「……シルバー、先輩? 僕が、見えてるんですか?」
 声も、姿も、俺の目の前にいるそれはデュースそのものだ。俺は自分に失望した。……はは、そうか。こんな幻まで見てしまうほど、恋い焦がれてしまっていたのか。だったら、もっとたくさん、もっと早く、生きている間に気持ちを自覚して、伝えてやるべきだったろう。
「馬鹿だ……俺は」
 閉じたドアに背を預けて、くずおれる。そんな俺の隣に、何か、冷たいものが触れるような気配がした。
「先輩、悲しまないでください……先輩のせいじゃ、ないですよ」
「何が、俺のせいじゃない、だ。……守り切れなかったんだ。そんな都合のいいことを、デュースの幻に言わせて……。後悔しても、もう遅いというのに……」
「あ、あの。すいません……。聞いてください。僕、幻じゃない、です。先輩……」
「……お前はそう言うだろうが……、何? 幻、じゃない?」
 デュースの言葉に、顔をあげる。涙で見れたものではないだろうが、構いはしなかった。
「なんか、僕、ゴーストになっちゃったみたいで……。気が付いたら、ここにいたんです」
 死んじゃったっぽいのは、まわりの様子とか雰囲気で分かったんですけど、デュースはそう笑った。
 俺は、思わず手を伸ばし、そのデュースの身体を抱きしめようとして、手がすり抜けるのを見て、その手を握りしめて、目元の涙を拭った。
「……何か、未練があるのか?」
「それが、分かんないんです。そりゃ、遺してくことになっちまう母さんのことは心配だし、優等生になれなかったな、とか、夢叶えたかったな、とか、そういうのはあるんですけど、死んじまったなら、その辺に未練を持ったところでもう僕にはどうしようもないし……」
 何にも触れないからどうすることもできないし、とデュースは言う。どうやらデュース自身には、この世に残るほど強い未練はないとのことだ。
「どこで、目が覚めた……というのか、ゴーストとしての意識が戻ったんだ?」
「最初に気づいたのは、病院とか葬儀場だった気はしますけど……。誰かに見つけてもらえたのは、ここで、シルバー先輩と、この部屋が初めてです」
「そうか……。他の者には、お前の姿が見えなかったのか? 母君でさえも?」
「たぶん、見えてなかったと思います。あ、葬儀場でセベクとか何人かの人が一瞬チラッて僕を見たような気がしたけど……、すぐ目を離したし、気のせいかも。こうやって、しっかり僕を見て話ができるのは、シルバー先輩が初めてです」
「そうか」
 デュースの話を総合すると、推測できるのは、どうやら、未練があるのはデュースの方じゃなくて……俺の方、なのだろうな。本当に愚かな男だ、俺は。生前にも大して愛してやれなかったくせに、デュースに、死んでしまってからさえ、迷惑をかける。
「……恐らく、だが。デュース。お前に大きな未練はなく、この場所で、俺にだけお前が見えるというのなら、未練があるのは、生きている人間……つまり、俺の方、なのではないか、と思う」
「シルバー先輩が?」
「ああ。だが、安心してくれ。お前をちゃんと、天に昇らせてやる方法を探すから」
 そう言うと、デュースは口を尖らせた。
「……先輩、また僕がいなくなっちゃってもいいんですか?」
「いいわけないだろう!!」
 思わず声を荒げてしまい、すぐにハッと頭が冷えて己の手で口を塞ぐ。
「……すまない。取り乱した」
「いえ……。僕のこと、大切に思ってくれてたんですね」
「……ああ」
「不謹慎かもしれないけど、嬉しいです。たとえそれが今さらだって、僕は嬉しい」
「………………」
「ワガママ言っちゃってすいません。ずっと僕が傍にいたりしたら、先輩だって……大変ですよね。この先……」
「この、先?」
 俺は続きを促したが、デュースはその先の言葉を紡ごうとしなかった。
「……今はやめときませんか、この話。先輩、一回眠ったがいいですよ。僕はたぶん、まだ、いますから」
「……」
 明日の朝、目覚めてもこのデュースがまた傍に居る。そんな保証をどこの誰がしてくれるのだろうか。
「眠りたくない」
「身体に悪いですよ」
「それでも、俺は……」
 ぐらり。俺の意思とは裏腹に、眠気が襲ってくる。歪んでぼやけた視界の中、心配そうなデュースの顔が見えた気がした。

 

「……んぱい……シルバー先輩! 起きてください、アラーム鳴ってますよ!!」
「ん……?」
 目が覚めたとき、俺は床にいた。昨日、あのまま眠ってしまったらしい。身体を起こして、ベッドまわりで騒いでいる目覚まし時計の群れを止める。その中には、デュースの声が入った目覚まし時計も混ざっていた。
「それ本当に使ってたんですね……。ちょっと恥ずかしいな」
「……大事なものだからな」
 そっと枕元にデュースの声入り時計を置き直して、朝の支度をする。今朝目覚めても、デュースの姿が消えずそこにあることに安堵してしまった自分を、情けないと思った。ちょっと遅れただけで、天に昇り星に還れていた方が、こいつにとってはいいことだろうに。
「デュース。お前は部屋から出られるのか?」
「けっこう移動できるみたいです。地縛霊ではないみたいですね」
「そうか」
「あ、シルバー先輩が一人になりたいときはちゃんとどっか行ってるんで! 遠慮なく言ってくださいね!」
「……いや……できるなら、近くにいてくれ。あまり長く姿が見えないと、どこか知らないうちに何かあったのではと、心配になる」
 分かりました、とデュースは答える。部屋を出る前に、デュースに言った。
「……部屋の外では、あまりお前の言葉に答えてやれないかもしれない。すまないな」
「大丈夫ですよ。先輩が変な奴だって思われちまったら困るし、静かにしてます!」
「そこまで気にする必要はないが……」
 まだお前の声を聴いていたいから、と言いかけてやめた。俺がこんなだから、デュースはこの世に縛り付けられてしまっているんだろう。

 簡易的な朝食を取って、教室へと向かう。俺の姿を見た親父殿、マレウス様、セベクの三人が、一瞬俺の背後を見た気がした。
「……皆、どうかしたのか?」
「いいや。お前が自力で起きてくるとは珍しいから、驚いてしまっただけじゃよ。さ、朝餉にしようぞ」
 それから、教室に行き、いつも通りに授業を受けて、いつも通りに過ごした。……そこに生きたデュースがいないだけの、いつも通りの日常を。
 そんなことを思うと、ふと物悲しさが俺を襲ってきて、涙を不意にこぼしそうになった。だが、すぐに拭ってしまう。傍にいるデュースにそんなものを見られたのでは、余計に未練が募ってしまいそうだからだ。この世の最後に見せた顔が泣き顔だとも思われたくはない。それくらいは格好つけさせてくれたって、いいだろう。

 放課後は図書館に赴き、文献を漁った。ゴーストになってしまった大切な人を昇天させる方法を、粗方探した。
 どうやらこうした事例は少ないとはいえ初めてのことではないようで、いくつか体験談のようなものが寄せられている本があった。
『悪魔祓いの儀式は効かなかったし、何より、最後まですることができなかった。家族を悪魔のように祓いたくなかったから。この方法は有効ではない』
『経典を唱えることも有効ではない。何故なら、僕の恋人は大して信心深くなかったからだ。経典の言葉の意味さえよく分かっていなかった』

 そんな体験談が続く中、俺たちにとって助かりそうな情報の載った一文があった。

『大切な人の魂が、強い未練を持っている生者の気持ちに縛られている場合の対処法』

 恐らく、俺の求めている答えはこれなのだろうと思った。震える手でページをめくり、そこに書かれている記述に目を落とした。
『もし、自分が大切な人を縛りつけていると感じたら、その魂の代わりになる依り代を作ること。人形や肖像画など、その人自身を形にしたものが望ましい』
 ……これだ、と直感した。俺が求めていた答えは、きっと。

 そうと決まれば、と、俺は傍にいたデュースにひそめた声をかけた。
「デュース。購買部に行くぞ」
「購買部、ですか?」
「ああ。……画材を買いに行く」
 それから俺は、購買部に向かった。デュースの隣でゆっくりと歩いていると、決心が鈍りそうだったから、少し早足で歩いた。それすらもいつかの日、後悔するのだと知っていながら。

 それから俺は部屋に戻って、デュースにベッドへ座るように言いつけた。
「文献を当たった限り、お前の代わりに俺の気持ちでこの世に縛られる依り代のようなものがあればいいのだ、と思う。だから、お前の肖像画を描くことにした」
「先輩、絵上手いんですか?」
「……分からない。嫌いではないが……。深く慣れ親しんだことではないな」
 さあ、そこに座れ、とデュースを座らせて、描き始めた。デュースが、どれくらいで完成するんですか、と尋ねてきたので、大方の見積もりを答えた。
「分からない、が……。俺は絵を描くのに慣れてはいない。2~3日以上はどうやってもかかるだろう」
 その間お前を縛り付けてしまう、すまないな、とデュースに言うと、いえ、僕はいいですから、とデュースは答えた。

 

 デュースのことを絵に描き始めてから、1日が過ぎた。最初に描いたデュースは、下書きの時点であまり綺麗にならなくて、何度も消して書き直していたら紙がグチャグチャになってしまったので、また新しく1から描き直すことにした。
 2枚目は結構うまくいったのだが、どうにも実物を見て描いたはずのそれがデュースであるとは思えなかった。ああそうか、俺のいつも見ていた健康的なデュースよりもずっと血色が悪いのだと気づいて、ボツにした。
 そうして、3枚目は、もしこれが完成してしまったら再びデュースと別れなくてはならなくなるということに未だ耐え切れず、完成を延期させた。……未完だ。
 それで、4枚目は、5枚目は。あえて未完成にした紙の束ばかりが増えていく。そんなことを繰り返しているうちに、一週間が過ぎようとしていた。

 ある日、用事があったのか俺の部屋を尋ねてきたセベクがドアを開けるなり驚いた顔を見せた。キャンバスを置いた俺を中心に、部屋中、デュースの絵でいっぱいになっていたから。窓からドアに吹きぬけた風が、何枚目かの没をひらりと飛ばした。
「セベク。どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもない!! お前こそどうしたんだ!?」
「……俺はどうもしていないが」
 俺の様子を見て、本当にどうもしていないのだと分かったらしいセベクは、部屋をぐるりと見渡して、それから大きな溜め息を吐いた。
「奇行に走るなら、分からないようにやれ。周囲にいらぬ心配をかけるぞ」
「なんだ、そのアドバイスは……」
 それからセベクは本来の用事を俺に言いつけると、ではな、と告げて部屋を後にした。
 セベクの言葉を受けて、改めて部屋を見渡してみると、酷い有様だと思った。何枚もボツにした絵が床に重なっている。
 デュースのことを知らない傍から見れば、俺は恋人を失った悲しみに暮れて肖像画を描き続ける未練たらしい芸術家のような男になっているな。
「……少し、片付けるか」
「そうですね。セベクの言うことも、最もだし」
 床に落ちた紙を拾おうとしたデュースが、その手をすり抜けさせて、悔しそうに、手伝えなくてすいません、と言った。俺は、気にするな、と答えた。何もできないまま、そこに居続けるというのもきっと辛いことだと俺は思ったから。
 
 それからも、キャンバスに向かう度に未完成のボツは溜まっていって。 99枚目を数えたとき、未練たらしい自分に呆れてため息をついた。

 ――いい加減、覚悟をしなければならないな。

 いついつまでも、俺の我儘や未練で、デュースをこの世に縛り付けていてはならない。
 ひとときはデュースを奪った神を恨んだが、本音を言えば今だって心の底では恨んでいるが、その神が特別にくれた別れの時間なのかもしれない、とそう思えるほどには、デュースを絵に描くことを繰り返すうち、心の準備というか、覚悟のようなものが出来てきていた。そう感じていた。
「デュース」
「はい?」
 すっかり、このゴーストの姿のデュースがいる日常にも慣れ始めてしまっていた。慣れてはいけないと、そう危惧した。
「……次で、100枚目になる。これはもう、ボツにはしない」
 俺の言葉に含まれた意味を汲み取ったのか、デュースは何かを言いかけた口を結んで、わかりました、と言った。
 それから俺は、今まで描いてきて気づいたこと、上がった技術、長けた思いのすべてを込めて、半ば惰性でもう一枚、あと一枚だけと完成を伸ばしてばかりいたそれまでよりもよほど集中して、デュースのことを描いた。
 これが終わればもう二度とその姿を見られないことを思えば、まつ毛の1本から唇の色に至るまで、すべてを描き漏らすものか、と思った。
 カリ、カリと、静寂の中、鉛筆を走らせる音だけが響く。デュースはただ黙って、俺を待ってくれている。
 それまでにかけた中で最も長い時間をかけ、たくさんの洗練された色を使って、ようやくその肖像画は完成した。
「……できた」
 完成した瞬間は、思わずふうとため息をついてしまった。随分、集中していたからだ。描くことだけに。
「できたんですね」
 夢心地でいる俺を現実に引き戻したのは、デュースの声だった。そうだ。この絵が完成してしまえば、デュースは。
「……本当に、完成したんですね。なんだか身体が軽いや。今なら、どこにでも行けそうだ」
 デュースは座っていたベッドから立ち上がり、俺とキャンバスの間へと立った。
「一回だけ、尋ねていいですか」
「……なんだ」
 次にデュースが紡いだ言葉に、俺は酷く動揺した。
「このまま、僕と生きてくれる気はありませんか」
「何……」
 混乱したままデュースの顔を見つめる俺とは裏腹に、デュースは優しく穏やかな笑みを浮かべた。
「困らせるのは、分かってました。でも……一度だけ、聞きたかったんです。その絵を完成さえさせなければ……完成した『それ』さえ、破ってでも燃やしてでも、なくなってしまえば、僕は向こうに行けない。ずっと、ここにいられるんじゃないか、って」
 シルバー先輩がこっちへ来るまでは、とデュースは続けた。
「僕はこんな、なっちゃいましたけど。それでもこのまま、一緒にいてくれたりはしないですか」
 デュースが目の前に立ったまま、俺の答えを待つ。悩んで、悩んで、悩み抜いて、沈黙が訪れた。
 もう振り払いたくもない空気の中、俺の出した答えは、決まっていた。
 ゴーストの体のまま、俺と過ごしていたデュースは、不自由そうだった。どんなときも、何も出来ない自分がもどかしそうだった。俺以外の誰にも声が届かなくて、寂しそうだった。そんな孤独な世界に、俺の我儘だけでいさせていいわけがない。
「俺は、この世にお前を縛り続けていられない」
 今度こそデュースの身体を抱きしめるかのように腕を伸ばして、その肩に顔を埋めるフリをした。そこに、少し冷えた空気以外には、何の感触もないことを知りながら。
「いなくならないでって、言えなくてごめん」
 幼い子どものような言葉と震える声で、そう伝えた。デュースは、ふっと笑い声をこぼす。
「許さない」
 言葉とは裏腹に、とても優しい響きを持ったデュースの声が響いて、涙を流した顔を上げた。そこには、明朗な笑顔があった。
「僕の他にいい人作って、抱えてる夢ぜんぶ叶えて、幸せな人生っての満喫してこなきゃ、許さないからな!」
 俺の好きだった、悪戯っぽく笑う顔だ。俺は袖で涙を拭って頷いて、デュースと改めて向き合った。
「それじゃ、お別れの時間だな」
「……ああ」
 もう、俺たちの間に言葉はいらなかった。目を完全には閉じず、伏せたまま俺たちはくちづけあった。孔雀色の瞳に俺がこんなにも大きく映ったのは、これが最後だった。くちづけた感触は、ない。あんなにも柔らかく、暖かった感触は今はもうなく、わずかにひんやりとした風が唇を冷やすばかりだ。
 デュースが、それじゃあ、と開いた窓に腰かける。
 俺は、それを歯を食いしばって、拳を握りしめ、ただ黙って見送ろうとする。
「死んじゃってごめんな。さよなら」
 窓を背に、デュースが倒れるように去って行ったその瞬間、俺は自分の意思や理性とは関係なく、咄嗟に手を伸ばしていた。
「待っ――」
 待ってくれ。やはり、行かないでくれ! 未練がましくそう告げてデュースの手を掴もうとした手は空を切り、最後に焼き付いたのは眉を下げて俺のことを見つめる笑顔だけだった。
 その笑顔ひとつで、それが正しい選択だったのだと、俺の頭が理解して、誤ってしまいたかったと心が悲鳴を上げて軋む。
 
 俺はそのまま、その場に崩れ落ちて、辺りに聞こえるのも構わず慟哭をあげた。

 泣いて、泣いて、泣き飽きてもまだ涙が出て、情けないなと小さく縮こまって床に座っていたとき、セベクが黙って部屋に入ってきて、冷たい床にもかまわず、俺と背中合わせに座った。
「アイツは天に昇ったのか」
「……」
 知っていたのか、と尋ねる気力も湧かない。それをセベクは察していたようで、勝手に話し続けた。
「デュースの姿は、僕たちにも見えていた。だが、見えているか分からないお前にわざわざ伝えるのも良くないと、皆で知らないふりをしていた」
「……」
「僕は、以前お前の部屋に立ち入ったとき、お前がデュースを見ながら絵を描いていたのを見て、確信した。お前には見えている、そして何らかの関係を持っている、と。だが……リリア様と若様には、報告しなかった」
「……そうか」
 礼も何も言わないまま、セベクとの間にわずかな沈黙が訪れた。やがて、セベクが再び口を開いた。
「これは、余談なのだが。僕はお前が、あれとこのままずっと共に生きるつもりなのか、とも思っていた。そして、それでもかまわない、とも」
「何?」
 驚く俺の声に、セベクは淡々と答える。
「……僕にも、もう、何度でも会えるようでいて、二度と会えない知己はいる。だから、気持ちは分かっていたつもりだった。だから、もしお前が恋人とそのような道を歩むと決めても、僕だけは肯定してやるつもりだった」
 僕だけでもお前たちを赦してやるつもりだったんだ、と告げるセベクに、俺は答えた。
「……もう、言わないでくれ」
「ああ……すまなかったな」
 
 それから、酷い顔だぞ、呼吸を整えて顔を洗え、とセベクに言われるままそうして、食事の場に顔を出した。
 食欲はあまりなかったが、皆、何も言わずいつも通りに俺を迎えてくれた。先程の慟哭は、聞こえていただろうに……。
 
 暖かいスープを飲んで、温度のあるシャワーを浴びて、身体が暖まると、あの冷えた温度のくちづけを思い出して、じわりとまた涙がこぼれそうになる。こぼれる涙をシャワーで誤魔化して、雑にタオルで髪を拭きながら自分の部屋に戻った。

『お帰りなさい、シルバー先輩』

 そんな声が響くことはもうなく、部屋に残されたのは、無機質に俺を見つめる家具たちと、1枚のキャンバスだけ。
 そのキャンバスの中に映る、よく知った誰かの肖像を見て、俺は一言だけこぼした。

「ふっ。……随分綺麗に、笑ってたんだな」

 窓から吹き抜ける冷たい秋の風が、俺の頬を優しく撫でていた。

*終

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