それは、今にして思えばただの偶然だった。
通りすがった木の影に、誰かの気配があった。気にせず通り過ぎようと近づいたとき、聞こえてしまった。
「女の子に、生まれたかったな」
がさり。
俺の驚きは、茂みを踏む音となって現れた。
音に振り向いた孔雀色の二つ目が、俺のことをゆらゆらと怯えるように映していた。
「シルバー先輩……、今の……聞いて……?」
俺は、盗み聞きするつもりじゃなかったとかなんとか弁解の言葉を述べようとしたが、うまく口が動かない。
水中で上手く酸素を得られない金魚のようにぱくぱくと口を開け閉めしていると、目の前にいる後輩から身体へと縋りつかれた。
「お願いだ、今のこと内緒にしてください! ……誰にも……」
「あ、ああ、分かった、誰にも言わない」
元より誰に言いふらすつもりも無かったが、あまりの剣幕にたじろいで答えると、彼――デュースはようやく笑ってくれた。
「良かった……、ありがとうございます!」
見つかったのがシルバー先輩で助かった、とデュースは呟いた。それから、食堂で何か奢りますよと言うから、後輩に奢られては立つ瀬がないと俺は一度遠慮したのだが、口止め料だと思って僕を安心させてくださいと口を酸っぱく言うから、とうとう俺の方が折れた。
それから。
食堂で昼食をとる。
うまいですねと言うデュースに、ああとかうんとか答えたきり、俺は何も聞かなかった。
不意にデュースが匙を止め、尋ねた。
「何も、聞かないんですか」
「何か、聞かれたかったのか」
「……いえ」
デュースの質問に質問で返せば、俺たちの会話というものは、それきりだった。
その日はそれで別れたが、俺の心にはずっとデュースの言葉が引っかかっていた。
「女の子に生まれたかった」
「オンナノコニウマレタカッタ」
「おんなのこにうまれたかった」
どういう意味だ。何度頭の中で同じ言葉を繰り返してみても、俺にはさっぱり分からない。
いや、さっぱり分からないのは、言葉の意味自体じゃない。言葉の意味自体は理解出来る。頭では理解したそれを、何故デュースが発していたのかの意味がわからないんだ。
ぐるぐると俺の頭は解決しない問題を抱え、悩み続ける。このままでは、日々の鍛錬や日常生活、緊急時における咄嗟の判断にも支障が出てしまうかもしれない。
こうなったら多少失礼かもしれないが、デュースに詳しく話を聞いて、彼の言うことをなんとか理解してみて心を落ち着かせようと試みた。
……結果は、惨敗。
あの日の木陰で、顔に暗い影を落としてうずくまるデュースに、物は試しと尋ねたんだ。
「なあ、デュース。……あの日に言っていたことは――」
「先輩が、何も聞かないって言ったんですよね」
「……ああ、そうだったな」
そうはっきりと口にした覚えはなかったが、語気を強めて言われてしまえば、俺にそれ以上の無理強いはできなかった。
なぜなら俺は、許されていないのだから。
デュースの持つ繊細な一面、その内面に踏み込むことを、許されていないのだから。
そう思うと何か、気持ちの苛立つような心地がして、デュースの前に立った。
「……なんすか」
立って、じっとその顔を見た。
そうすれば、何か分かるかと。
何かひとつくらい、この目の前の分からない生き物のことを理解出来るのでは無いかと、そう思ったから。
だが、それをデュースには喧嘩を売っていると取られてしまったらしい。
デュースは俺に負けじと据えた目で睨み返してきた。
「何ガンつけてくれてんですか」
「……」
デュースの顔が、目の前に迫る。それでもただ見つめていると、デュースが眉根を寄せた。
「なんなんだアンタ、」
俺はその頬に手を触れさせて、言った。
正確には、言っていた。思うよりも先に、言葉にしていた。
「お前のことが、分からない」
瞬間、デュースに手を払われた。
「俺は……っ、分かられたくねぇよ、」
「……っ」
払われた拍子に、ぴ、と横一直線に、顔に些細な切り傷ができた。
それに怖気付いたのか、デュースはあ、すいません、僕そんなつもりじゃ、などと反射的に言うから、なんだか哀れになって、些細な傷だ、気にすることは無いと傷口を手の甲で拭ったら、どうやら余計に血みどろが手と顔に広がったらしく、本当にすいません、とデュースは気落ちしてしまった。
申し訳ないと思う一方で、これはチャンスだと俺にささやく悪魔の声があった。俺は迷わず、悪魔の手を取った。
「なら、手当をしてくれないか」
「へ? 手当? そりゃもちろん、しますけど……」
「顔は自分では見えにくいから、手当てをしてもらえると助かる」
「分かりました」
なら保健室行きましょう、とデュースが言うので、それに従った。
保健室に行くと、デュースは慣れた様子で絆創膏やら消毒液やら脱脂綿やらを取りだした。
「慣れているんだな。縁がなさそうなのに」
「実験だ部活動だで、しょっちゅう擦り傷切り傷作るんで。実は常連なんです……どうぞ。沁みますよ」
「ああ」
顔に当てられた綿から、消毒液が沁みていく痛みがする。片目を伏せて耐えていると、デュースはふっと笑った。
「何がおかしい」
「や、先輩も。こんな些細な痛みでも、痛そうにするんだなって思っただけです」
なんかこういうの平気な顔してるイメージあったから、とデュースは言った。
「俺だって、痛いものは痛い。それに……」
「それに?」
「些細な痛みでも、ないと気づけない。誰か近くにいる人が、その些細な痛みを感じていることに」
そうして、デュースの手首を掴んだ。
「お前は、何を痛がっている?」
デュースは答えない。
「……今痛いってんなら、先輩が掴んでるこの腕ですかね……」
「誤魔化さないでくれ」
「いい加減にしろよ!!」
突然響いた怒声に、驚いて手が緩まる。その一瞬の隙に、デュースは再び俺の手を振り払った。
「気軽に踏み込んでくんな……っ、アンタには、関係ないだろ!」
「デュース、」
「どうせ、同情や興味本位でしかないくせに!!」
デュースは手を振り上げ、俺の頬を思い切りひっぱたこうとして……、ぐっと奥歯を噛み締め、寸前で留まった。
ああ。偉いな。偉いが、今、俺は殴られても良かったのに。お前の触れられたくない心にずかずかと土足で踏み込んでしまったのなら、そのくらいの罰は受けたのに。
悔しそうに歯を食いしばるデュースに、俺は、追い打ちをかけた、のだろうか。
「お前の傷を、癒したい」
俺の頬は、今度こそ強く引っぱたかれた。
それから。デュースには話しかけようとも、避けられている。挨拶をすれば返してくれるが、それだけで、返事も素っ気ない。
そういえば、俺が頬にふたつの傷をつけてディアソムニア寮へ帰った日には、誰じゃお前にそんなことを、と興味半分怒り半分で尋ねる親父殿を俺が悪いからと宥め納得させるのが大変だった。それもあり、ひょっとして親父殿が何か手を回したかとも思ったが、そこまで過保護な性格の父ではないとすぐに思い直した。親父殿は、俺に降りかかる試練を何とはなしに避けさせる人ではない。だから、これはきっと俺が自分で乗り越えるべきことなのだ。
そんなある日、雨が降った。傘なしではとても歩けない豪雨だ。
傘を忘れて立ち往生しているデュースを見かけて、入っていくかと尋ねた。
「ははっ……最悪だ」
「……」
「今、アンタの傘に入るくらいなら、走って濡れて帰りますよ」
「なら、なぜ今までそうしなかった。濡らしたくないものがあるから、困っていたんじゃないのか」
図星を突かれたのか、デュースはそっぽを向く。
「……使え」
俺はデュースの前に膝をつき、開いたままの自分の傘を差し出した。
「いやだから、」
「俺は入らないから、安心していい」
デュースの手に傘の柄を押し付けると、俺は豪雨の中を一直線に走った。デュースが何か叫んでいる気もしたが、雨の音でかき消され何も聞こえなかった。
これでいい。こうすれば良かったんだ。
何も、あいつの傷を癒すのに、すべてを知る必要は無い。
勝手に傍にいて、勝手に助ければいい。
俺がそうしたいからすればいいんだ。
簡単なことだった。
失礼をしてしまって、デュースには謝らないと。ディアソムニア寮に着くなり、シャワーを浴びてベッドで眠る。
その甲斐もなく俺の視界は、ぐにゃりと曲がった。
次に目が覚めたとき、身体を起こすと、部屋の中にデュースがいて、タライに濡れた布を絞っていた。
「起きない方がいいですよ。まだ熱あるんで」
「……デュース?」
デュースは俺を避けていたはずだ。何故、この部屋にいるのだろうかと疑問を持っていると、デュースの方が口を開いた。
「傘、返しに来たら、こないだの雨で熱出したって聞いて。……さすがに後味悪いんで」
お詫びに看病してます、とデュースは言った。そうか、と俺は答えた。
どことなく気まずい沈黙が部屋を支配する。耐え切れず、俺は口を開いた。
「すまなかった。お前の傷を、無理に聞き出そうとして」
「え?」
デュースは顔を上げる。
「お前を癒したかったら、俺が勝手にやれば良かったんだ。何も聞かず、何も知らずに。あの日のように、勝手に傍にいて、勝手に助ければ良かった」
熱で薄れる視界にそんなことをうわごとのように呟くと、デュースはまた布を絞った。俯いているから、表情はよく見えなかった。
「……なんすか、それ。謝るの僕の方ですよ……、酷い態度取って、すいません」
一呼吸置いて、デュースは俺に頭を下げた。
「傘、ありがとうございました。お陰で、母さんに見せたかったテストも、ダチとの写真も、部活の表彰状も。全部濡らさずに持ち帰れました」
「そうか……良かった」
顔を上げたデュースが、俺の方をきっと見た。
「あの。風邪治ったら、話したいことあるんです」
「なんだ?」
「病人に長話するのもなんなので……。治ってから、聞いてください」
「分かった」
それから程なくして、もう夜になるからとデュースはハーツラビュルへと帰った。帰って、しまった。俺はまだ、デュースに傍にいて欲しかったような気がしていた。どんなにつっけんどんな態度を取られてもかまわないから、傍に。そして思った。それは、俺の我侭でしかないのではないか、と。
次に会いに行ったとき、デュースはいつかの木陰にいた。俺の気配が近づくと、デュースはぽつりと話し始めた。
「シルバー先輩。僕ね。駄目なやつなんです」
「……」
『それは違う』と断じるのは簡単だが、俺は黙ってデュースの言葉を聞いた。そうするのが、最善だと思ったから。
「力が無駄に強いから、すぐ暴力に訴えようとする。ガサツだから、すぐ服も汚すし、破くし。
……だから、だからさあ。
もし、僕が女の子に生まれてきたらって、そう思ったんです」
告げるデュースの声が、涙で震えているのに気づいた。
「デュース、話したくないなら、無理には……」
俺の制止も届かず、デュースはさらに慟哭を上げた。
「女の子になれたら、さあ! 力も、今ほど強くなくて! もっと、丁寧で大人しい性格で! オシャレだなんだって、母さんのこと、もっと楽しませてやれて!! 泣かせるより、笑わせて…… ……力ばっかに訴える、こんな馬鹿にならずに済んだのかな……って、そればっかり思うんですよ……考えちまうんですよ!!」
「……」
伸ばした手を、思わず引っ込める。デュースが、そんなことを思い悩んでいたなんて。
「癒せますか? あんたの見たがってた、知りたがってた”傷”ですよ!! ……無理だろ。かける言葉も見つからねえんだろ!! そうだよ、こんな、鬱陶しくて、暗くて重くて、気持ち悪い……」
自嘲をやめないデュースの言葉を、俺は遮る。これは好きに言わせておいては、良くはないことだ。
「ひとつ、いいか。お前は、何か勘違いしていると思う」
「へ……? 僕が、何を……」
「デュース。お前がなりたいのは、女の子じゃない。幸せになりたいんだ」
「は……」
デュースはただ、俺の言葉に呆然とした顔をしている。それでも俺は、伝えなければと思った。俺が思ったこと、感じたことを。
「お前は、『母君を笑わせたい。泣かせてしまったことを後悔している。力にばかり訴える自分でいたくない。もっと丁寧な性格になりたい。女の子のように一緒にお洒落なんかして、母親孝行をしてみせたい。そうして、まわりも自分も幸せでいたい』、と、そう言っているように感じる」
「そんな、」
「そして、俺はこう思う。お前は、幸せになれる。その手段は、生まれてこなかった女の子になることじゃない。今、ここにいる、ここに生まれてきて、生きているお前自身が自慢の息子になることだ」
「でも、」
「でもじゃない。だってもない。お前ならできる。今からでも、遅くは無い。いつだってお前は、母君にとって自慢の息子になれるんだ」
そうは思わないのか、とデュースに問いかける。だけど、デュースはその問いかけにも顔を俯かせてしまう。
「……無理、ですよ。だって」
「何故だ。何故、そう思う」
「母さん、孫の顔を楽しみにしてるんだ。けど、僕はまだ16歳だ、気が早いって僕が何度言っても、でも僕はそれを叶えられなくって、」
ここでようやく、デュースの様子がおかしいことに気づく。デュースの抱えた傷というのは、先ほど言っていた悩みだけではない、のか? もしかして。
「デュース?」
デュースは俺に縋りつくようにして、か細い声で言った。まるで自分は深刻な病気なんですと告白でもするかのように、顔を青ざめさせて。
「……シルバー先輩。あんたのことが、好きなんだ。僕は、男が好きなんだよ……」
俺は、デュースの言葉に、驚いた。
『そんな些細なこと』がデュースの心に引っかかっていたとは、ついぞ思わなかったから。
俺は、お前が好きになった人なら、どういう者でもいい、と。男も女も、言葉も国も、時には種族さえ。ひとつ同じ空の下、どんな境をいくつ越えても、越えなくても、かまわない。どういう者を愛しても、後悔だけはするなと言われて育ったから。
ああ、でも。これがそうか。
近しい人の持つ、些細な傷の痛みに気づけなかった俺の姿、なのか。
「……幻滅しただろ。気持ち悪いって思っただろ。助けたいって気持ちなんかなくしただろ。分かったら、」
僕なんか置いてどっか行ってくれ、なんてデュースは言う。俺は、デュースを抱きしめた。
「な……」
デュースの口に、くちづける。なるほど。相手から言われてみるまで自分の気持ちに気づけないとは、俺もなかなかの鈍感だ。
「気持ち悪くない。俺も好きだ、デュース」
「は……」
なんだよそれ、とデュースは言った。だが、まだ俺を信じられないのだろうか。
「……なら、抱いてみてくださいよ。好きだってのは、そういう意味ですよ?」
同情や好奇心じゃ勃つものも勃ちゃしねえだろ、この硬くて無愛想な身体を見事抱いてみろよ、とデュースは挑発する。俺はその場にデュースを倒して、深く口付けた。
「んっ、……っ……」
首筋をなぞり、ネクタイを緩めようとする。デュースの耳元でささやいた。
「……外だが、本当にいいか?」
俺はかまわないが、と続ければ、デュースからどんと突き飛ばすように肩を押されたが、覆いかぶさる俺の身体は大して揺らがなかった。
「なっ、何考えてんだあんた……!」
「お前が抱けと言うからそうしようとしたまでだ」
悪びれず答えれば、今度はデュースの方が金魚になる番だった。口をパクパクと開閉させ、顔も真っ赤で、本当に金魚のようだ。
デュースの腕を引き、言う。
「一度(ひとたび)抱けば安心するというのなら、万回抱いてやる。諦めて俺のものになれ」
「……っ」
「返事をしろ」
「いっ、いきなりすぎる! ずっと悩んでたのに、そう言われても……っ!!」
「お前だっていきなりだったろう」
「だって、まさか、そんな、や、でも……」
「母君のことか?」
「……はい」
「孫の顔は見れなくとも、息子が二人に増えることを喜んでくれない人だったか?」
「そんなことない! きっと……喜んでくれますけど、」
「なら、伝えてくれ。貴方の自慢出来る息子が、これから二人に増えますと」
そこまで伝えると、デュースはようやく何かが吹っ切れたのか、ぽろと涙を流した。いつも元気な彼に似合わず、後から後から流れてくる、静かな涙だった。俺は袖で涙をぬぐい続けるデュースを抱き寄せて、ただぽんぽんと頭を撫でていた。
それから。また後日のこと。
「先輩」
「ん、なんだ? どうした」
「別に……。ちょっと、甘えたいだけです」
「ふっ、そうか。なら存分に甘えるといい」
猫の子のように俺に寄りかかって甘えるデュースの頭を撫でる。あれからデュースは、すっかり素直になった。時々不安そうに、本当に気持ち悪いと思わないかと尋ねてくることはあるが、その都度俺がそんなことは露ほども思わない、大丈夫だと答えてやれば、安心して甘えてくるようになった。
つっけんどんにされてもめげないつもりはあるが、素直に恋人として甘えてくれるのは、やはり可愛らしい。
……デュースに言われるまで自覚もしていなかった恋心だったが、叶って良かった。
「デュース」
「はい?」
「俺は、お前を女の子にはしてやれない。だが、……幸せにはしてやれる。今の、ありのままのお前を」
だから、とくちづけた。
「俺を頼ってくれ。これからは」
デュースはそっぽを向いて、気が向いたら、と言った。その指先が控えめに俺の袖を引いていることを、可愛らしく思った。
*おしまい
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