ジワジワジワ、ジー。近くの木で鳴るセミの声が、俺たちの傍でけたたましく響く。
広い運動場の片隅の木陰で、溶けかけのアイスを口にしながら、デュースが言った。
「今日も暑いですね」
「そう、だな」
この頃、妙に暑い日々が続いている。学園は普段、精霊の力によって適温が保たれており、とても快適なのだが、今年の夏は精霊でも対処しきれないほどの猛暑が続いており、彼らに無理はさせられないとのことで俺たちの暮らしも夏の暑さに照らされることとなっていた。
「ほんと、あっつ……」
ぐい、とデュースは着ていたシャツを引き、自らの顔の汗を拭う。引き上げられたシャツの裾から細い腰が見えて、つい目を引かれる。誤魔化すように、スポーツドリンクのペットボトルを傾けた。ぬるくなった液体が、喉を通して俺の頭を冷やす。はずだった。
それでも、俺の頭は、この暑さにやられてしまったのだろうか。
気が付いたら、気が付いたときには。
「え?」
デュースに、くちづけてしまっていた。
「せんぱ、んっ」
コマ送りの映画のように、デュースにつけた唇を、また離してはつける。デュースのことを地面に倒した頃、ようやく意識を戻すことが出来た。
「あ……すまな、い」
「……」
デュースは、何も言わない。怒るでもなく、嘆くでもなく、ただ、俺のことをじっと見つめている。
「先輩」
「……なん、だろうか」
何をするんだ、謝れと文句を言われるのだろうか。そう言われても仕方のないことをした、と肩身が狭く気まずい思いをしていると、デュースの手が俺の頬に伸びてきた。触れる指先が、肌を包む夏の空気よりもずっとずっと熱かった。
「ここじゃ、ダメですよ」
そう言ってデュースは地面から身体を起こし、ぱしぱしと運動着の肩や背中を叩いて砂を払う。それから俺を振り向き、笑った。
「そういうことすんなら、隠れてやらねえと」
ですよね、と照れくさそうに言って髪をかけるデュースの耳が赤く染まっているのを見つけて、震えて握る拳を見て、俺は、どうしようもなくなった。
「……それなら」
デュースの手を引き、走る。運動場から、学園裏の森まで、走る。涼しい湖畔の陰までデュースを連れてきて、ようやく俺は止まった。
止まった瞬間、デュースのことを腕に入れ、抱きしめた。強く、抱きしめた。
「デュース。……好きだ。お前のことが、好きで仕方ない」
俺の腕の中で、デュースは大人しくしている。強く抱きしめたままでいると、さすがに痛いんでちょっと緩めてください、とやはり笑われてしまった。
「すまない……逸りすぎた」
「いえ。こうしてくれるのは、僕も嬉しいんで」
シルバー先輩が思いっきり抱きしめても潰れないくらいには頑丈で良かったです、とデュースは笑う。
「答えは、聞かせてくれないのか」
「……いい、ですよ。耳、貸してください」
少し待てば、耳元に、デュースの好きです、というささやき声が落ちた。
「……本当に、か? 俺が、暑さにやられて見ている、真夏の夢ではないのか?」
「僕、ニセモノに見えます?」
「見えない……、そうか。本当に、現実なんだな」
ぐっと腰を抱き寄せると、腕の中に入れたデュースの鼓動がドキドキと早まるのを胸に感じた。ああ。緊張、しているんだな。
「先輩……、ちょっと手、早くないですか」
「な、何もしない。これ以上は、しない。……はずだ、恐らく……」
「自信ないんじゃないですか……」
しどろもどろな俺の態度に、デュースは呆れてしまったようだ。……仕方あるまい、甘んじて受け入れよう。だが、そんなことを思っている間、その直後にこぼされた言葉が、俺に衝撃を与えた。
「……別にそうなっても、僕はいいんですけど」
俺は動揺して、思わずデュースの唇を己のもので塞いだ。……しまった。これでは、いいと言われたからそうしたように思われてしまう。
「すまない、驚いてつい、お前の口をふさいだ」
「先輩、驚き方独特ですね……」
「すまない……だが、その。そういったことを不用意に言うのは、良くない」
「……どうして、ですか?」
「それは……」
一瞬だけ、逡巡した。だが、この暑さが、俺を狂わせるから。すべてを夏の暑さのせいにして、デュースへと手を伸ばした。
「こうなるから、だ」
今度こそデュースを地面へ押し倒すようにして、俺は、またその唇にくちづけた。
……何度でも、吸い込まれるように。
ちゅ、ちゅとくちづけを繰り返す音だけが辺りにやけに大きく響く。
もっと深くくちづけようとした瞬間、誰か人の来る気配がして、俺は正気に戻った。
「……っ、すまない……」
いえ、とデュースは少しの間を置いて答えた。赤らんだ頬で目を逸らすデュースの姿に、俺は、何も言えなくなって、それで、言い訳をした。
「暑さの、せいなんだ」
「え?」
「この暑さのせいで、きっと……、俺は、おかしくなってしまった」
だから、デュース、と口にすれば、デュースは悲しそうな顔をした。
「それって、僕への気持ちは、……暑さに浮かされた、ニセモノだってことですか?」
「違う! そうではなくて……お前への気持ちは、本物だ。だが、」
俺が思い描いていたのは、もっとお前を大切に、少しずつゆっくりと歩んでいくような関係で、そうデュースに告げるが、結局うまくは言葉が出てこない。だが、デュースはそんな俺のことを、抱きしめてくれた。
「なら、いいんです。先輩の気持ちが本物なら、僕は、どうされてもかまわないんで」
「……デュース」
俺はただ、デュースを抱きしめ返した。湖畔の水面が、太陽を照り返してきらきらと光っていた。
それから、俺たちは恋人同士という関係になった。
あの日、触れてしまってから、俺は、デュースへと気安く触れるようになった。
というか、触れないことができなくなった、というべきか。
デュースに会えば、必ず、頭を撫で、抱きしめ、キスをしてしまう。
友人や家族の前でも、どれかひとつは必ずしてしまう。
一目会えば、その姿を見れば、少しでも触れていたくて仕方ない。
傍にいたい、抱きしめたい、甘いシトラスの香りに包まれていたい。
そんな感情だけがいつでも俺のことを突き動かした。
そのような日々を過ごしていた、ある日のこと。二人きりで過ごす空き教室の中、デュースが言った。
「シルバー先輩は、スキンシップが好きなんですね」
俺があまりにもデュースに触れているからだろうか。デュース自身も、そのようなことを感じていたようだ。
「……すまない。嫌だったろうか」
「嫌、ではないです。ちょっと、皆の前では恥ずかしいけど……」
シルバー先輩に触られるのは、好きですから、とデュースは口にした。俺は、またデュースに触れたくなった手を、ぎゅっと握りしめて耐えた。
「先輩が、僕のこと大好きなんだって思ってくれてるのが、伝わってくるから」
だから、嫌ではないんです、とデュースは照れくさそうに笑う。俺は、胸の内から込み上げてくる気持ちが、締め付けるほど切なくなりそうになるのを感じた。
果たして先人の残した恋い焦がれる、という言葉は、このような心持ちのことを言っていたのだろうか?
どうして、デュースなのだろう。どうして俺の気持ちは、心は、こんなにもお前ただ一人に焦がされてしまうのだろう。
分からない。ずっと考えても、分からなかった。それでも、この逸る気持ちを手放す気にはならなかった。
*
隣に座るシルバー先輩を、横目でちらりと見る。
どこか見つめて眉を寄せているその頬は、きゅっと口を結びながら、少しだけ赤く染まっている。
誰かがその顔を、見れば『ああこの人、恋してるんだなあ』なんて、思えるような横顔だ。
僕もその限りじゃない。……その相手が、僕じゃなければ、呑気にそうも思ってられるんだが。
あの日、運動場の片隅で、シルバー先輩にキスをされた時は、びっくりした。
嫌ではなかった。僕も、とっくの昔に、シルバー先輩のことが好きだったから。
びっくりしすぎたせいか、僕は、そのとき、なぜか一周回ってちょっと冷静だった気もする。
ああ、嬉しいな、だけど、こんなところでこんなことしてたら誰かに見つかっちまうな、それはちょっと恥ずかしいかもな、って思って。
そしたら、シルバー先輩は僕を学園裏の森に連れてって、また、ものすごくたくさんのキスをした。
シルバー先輩は、夏の夢じゃないかって言ってたけど、そんなこと僕の方が言いたかった。
あの日太陽が反射して、やたらきらきらしてた水面のことを、まだよく覚えている。
それから恋人同士になってからも、シルバー先輩は、たくさん、たくさん僕に触れてきた。
頭を撫でて、抱きしめて、キスをされた。先輩の家族や、僕のダチがいても、先輩は気にしなかった。
いや、気にしてはいるけど、止まれなかった、って言った方が正しい、のかな。そんな印象を受けた。
僕はちょっと驚いた。時々まっすぐすぎるほどまっすぐなところがある人だとは思っていたけど、そんな情熱的なところまであるとは、まだ知らなかったから。
でも、僕がもっと驚いたのは、そういうこと全部、嫌だって思ったことはないことだ。
僕が知ってる僕は、やたらベタベタされるのが嫌いで。人前でイチャつくのなんて恥ずかしくて。そうだった、はずなのに。
(先輩にだけ、変えられちまったな)
そんなことを心の中で呟きながら、シルバー先輩の横顔を見つめる。今日はまたそんな顔して、何を考えているんだろうな、なんて思いながら。
*
己を制御しようと拳を握りしめてデュースのことをずっと考えていて、少し落ち着けたと思う。
視野が開けて、ふと、デュースに見つめられていることに気付いた。
俺が黙って考え込んでしまったせいか、デュースも黙っていたようだ。
「っ、」
そちらに声をかけようと目線を向ければ、飛び込んできたのは。少し照れて困ったように眉をしかめ、頬を赤くしたまま、口を少しだけ尖らせたデュースの表情で。
ああ、恋をしてくれているのだ、その目で見つめてくれているのだと直感で理解して、俺の手は、またデュースの頬に手を伸ばしていて。
ゆっくりと、スローモーションのように、デュースへとくちづけた。
「……」
永遠にも思える一瞬のくちづけを離すと、デュースは笑った。
「また、触れたくなっちゃいました?」
「……吸い込まれた」
「ははっ、なんですか、それ」
「嘘じゃない……本当だ」
「疑ってませんよ」
シルバー先輩はキスが大好きなんですね、とデュースは言った。確かに、選択肢にあればつい選んでしまいがちな以上、嫌いなことではないのだろう。だが、なんというか。うまく言えないが、そういうことではない気がしていた。
「キスが大好き、というか、その。……俺は、幅の広い愛情表現と、お前への感情を制御することが、下手なのだと思う」
だからお前を見れば、触れたくなるし、キスばかりしてしまう、とデュースへ正直に告げれば、デュースはきょとんとした表情になった。
「……僕は好きですよ。キスも、頭撫でられるのも、抱きしめられんのも」
ホントはベタベタするの好きじゃないんですけど、先輩だけですよ? デュースはそう言って、崩した体育座りの膝に軽く顔を埋めるようにしながら、どこか妖艶に笑った。
その表情を、姿を見ているだけで、また俺の胸は締め付けられるような心地を覚える気がした。
「先輩なりの、やり方でいいんです。僕もあんまり上手じゃないし、全然返せてないんですけど」
「そんなことは……」
ただ俺の勝手を笑って受け入れてくれるだけでも、十分に俺は返してもらっていると感じている。だが、デュースはそうではなかったようだ。
「でも……そういう、不器用でまっすぐな先輩が、大好きです。だから、これからもよろしくお願いします」
「……ああ、もちろん」
それじゃあ名残惜しいですけど、そろそろ鐘も鳴りますから、とこの場を立ち去ろうとするデュースの腕を掴んで、最後にもう一度くちづけていいか、と尋ねれば、デュースは笑い声をこぼして目を閉じる。
俺はその身体を抱き寄せ、顎を上向かせながら、考えるまでもなく頭にたくさんの言葉を浮かべていた。
ずっとずっと、大切にしよう。この子は俺の好きな子だ。大切なものだ。俺が好きになって俺が手に入れた、俺だけのものだ。
好きだ。大切だ、大好きだ。大好きなんだ。愛しているんだ。
そのような気持ちが伝われと口をつけて、永遠だと思うにはあまりにも短い一瞬を噛み締めて。
「……それじゃあ、また」
別れを惜しみながらデュースの身体を抱きしめる。
すると、デュースの手が俺の頭に伸びてきて、髪を撫でられた。
「はい、また会いましょうね、シルバー先輩」
そうしてデュースは俺の頬にちゅ、とキスをして、教室を去った。
照れくさそうなその笑顔が、柔らかくほほ笑んでいるのを見て、やっぱり俺は、どうしようもなくなった。
顔が熱くなって、涙が出そうなくらい、幸せだと感じた。
(……もうすぐ、授業の始まる鐘が鳴る。教室へ戻る前に、この崩れた顔をなんとかしなければ……)
どうしてこんなにもアイツだけに心をかき乱されるのか、こんなにも俺は幸せでいられているのか。
考えても考えても、答えなど出なかった。出なかった答えは、すべて夏の暑さのせいにして。その暑さに感謝した。
*おしまい
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