しとしとと、静かな雨が降っている。雨空を眺めながら、俺はひとりの男の顔を思い出していた。
雨が降る度に、思い出す顔がある。それは、雨が降ったことについて、不服そうに柔らかな頬を膨らませる、晴れの日が好きな後輩の顔だ。
俺は、その後輩、デュース・スペードのことが好きだ。もちろん親愛の情もあるが、この場合は特別な恋の相手として好きだという意味合いだ。
なぜなのか。詳しい理由やきっかけは、今となってはもはや分からない。ただ、アイツと一緒にいると、やけに楽しいと感じたことが始まりだったのは覚えている。
俺は、何を思っていても表情に出にくい性質だからか、家族以外の誰といて、何をしていても、あまり、楽しんでいるとか、悲しんでいるとか、そういうことが伝わりにくいのだが、デュースといると、自然に笑えることが多かった。そして、デュースの方も、そんな下手な俺の笑顔を「そういうものだ」と当たり前に、自然に受け入れてくれた。
この想いを、どんな言葉にすればいいのかはまだ分からない。だけど、俺は今、ただ、デュースのことが好きで、傍にいて、守りたいと思っている。
教室を出ると、偶然にも玄関口に佇むデュースの姿があった。姿を見るだけで、俺の心は灰色の空に似つかわしくない喜びを覚える。見つめていると、デュースの方から声をかけられた。デュースの声色は楽し気で、悪戯っ子のように笑っていた。
「シルバー先輩。傘、入れてくれません?」
俺はこの申し出に驚いた。なぜなら、デュースの手には既に1本の傘がある。だが、ああ……、そういうことかと頷いて、俺は了承の返事をした。
「ああ、かまわない。入っていくといい」
「へへっ、ありがとうございます」
「気にすることはない。これは、俺のためでもある」
俺の傘に入りたいのなら、いつだって入れてやる。デュースが自分の傘を持っているときだって、それは変わらないことだ。
「お邪魔します」
デュースが俺の傘に入ってきて、ぎゅっと身を寄せる。
「なんだ、甘えているのか?」
「ダメ、ですか?」
ささやかな上目遣いで尋ねられ、その可愛らしさにきっと、俺は甘やかな笑みをこぼした。
「ふっ。お前に甘えられるのは、嫌じゃない」
好意を隠さない返事をして、2人、雨の中をゆっくりと歩き出す。あえて言葉にせずとも、一歩ずつ着実に、2人の距離は近づいている。少なくとも、俺はそう感じていた。
だが、ある日。そんな日常を送ってきた俺たちに、転機が訪れた。デュースに、恋人ができたというのだ。……俺以外に。
デュースの言葉を聞いたとき、滝のように流れる疑問が俺の頭の中を駆け巡った。
何故。俺との関係は、嘘だったのか。俺のことを、裏切ったのか。いや、嘘や裏切りだなんて、誰がどの口で言えただろう。だって、俺はデュースのなんだった? なんでもない、ただの同じ学校に通う、先輩でしかないじゃないか。
俺はデュースに特別な想いを持って接していたが、デュースの方はただの後輩のつもりで甘えてくれていて、俺だけが、勘違いをしていたのかもしれない。
「詳しく、聞いてもいいか」
ようやく絞り出せた声で改めて話を聞くと、デュースは恋人とは街中で声をかけられて出会ったのだ、という。……何故。俺との時間の積み重ねは、偶然の出会いに負けるような、そんなものだったのか。
その上、よくよく聞けば、その相手は女性ですらなく、年上の男性だと言うではないか。
『なら、俺でも良かっただろう!?』
つい、そんな言葉が口をついて出そうになった。だが、何事もなかったかのように自分の口を閉じさせた。
デュースが選んだ恋人。デュースが本人の、その意思で、真実の心で、たったひとり選んだ恋人。そのたったひとりの選択が指す先は、俺じゃなかった。
なんてひどい。悲しい。切ない。苦しい。だったらあの時間は、俺たちのこの関係は、なんだったんだ。そんな気持ちが、胸の中を渦巻いている。それでも俺は、デュースの意思を尊重したい。そのためには、この気持ちを隠し通す覚悟すら決めよう。
そう、思ったのに。覚悟を決めたのに。なのに、デュースは言うんだ。
「何も、言わないんですね」
「何か、言ってほしかったのか」
「シルバー先輩は、良く思わないんじゃないかって、思ってました」
そこまで分かっているのなら、どうして俺を選んでくれなかった! そう怒鳴りつけてしまいそうになって、やめた。それは、あまりにも情けないから。なのに。それでもデュースは、食い下がる。
「奪ってやる! ……とか、なったりもしないんですね」
「今や俺に、その権利はない。……何が言いたい、デュース」
「……いいんですか。僕が、他の人と幸せになっても」
「かまわない。それがお前の幸せならば」
心が引き裂かれそうだ。口先だけでも、お前の幸せを祈れる男でいさせてくれ。
デュースをじっと見つめていると、不意に2人の間に沈黙が訪れた。
*
シルバー先輩は、何も言わず黙ってしまった。
……なんだよ。もっと、縋ってくれると思ったのに。
僕が他の人のところに行っちまうって言えば、奪ってさえくれると思っていたのに。
そう思うと、嫌気がさして、考えもせず言葉を口にしていた。
「僕は……嫌だ」
「何?」
「僕は、先輩とが良かった。……幸せになるなら」
先輩は、やっと声を荒らげた。
「だったら、何故! ……何故、他の男を選んだ? それはお前の選択だろう。俺は、お前が自分で決めたことを、どれひとつ無碍にしたくはない。それはお前が今日まで生きてきて、俺の知らない事情や気持ちもあって、その上で、真剣に悩み、そうするのだと、心の真ん中で決めたことなのだと、そう思うから……だから、俺はそうしたお前の意思を、俺の我侭で覆したりしたくはない」
今にも泣きそうな声で、そんなことを言う。雨のように降り積もる優しい愛情が、ずるい僕の心に刺さって罪悪感を軋ませた。
「……ごめんなさい。試すような真似して」
「デュース?」
「話します、本当のこと」
*
「実は、その。恋人ができたっていうのは、嘘、なんです」
「なぜ、そんなことを言い出した」
デュースから告げられた言葉に、思わず俺は、デュースに詰め寄る。
「それは、その」
デュースはばつが悪そうに目を逸らしながら、俺への気持ちを打ち明けた。
「……先輩は、気持ちを伝えてはくれるけど、僕に、なかなか踏み込んできてはくれなかったから」
その件については、心当たりがある。俺は、確かに、境界線を守っていた。デュースが、その気になればどこへでも行けるように。俺でなくとも、誰を選んでも幸せになれるように、と。ただ、見守り続けようと思っていた。俺は、ナイトレイブンカレッジを卒業すれば、もしかするとそれよりも早く、茨の谷に帰らなくてはならないから。
だけど、それでも。デュースは踏み込んできてほしいと願っていた。俺と、関係を進めることを願っていたのか。学生の間のひとときの思い出だけでなく、これからずっと続いていく関係性を。
「恋人ができたって言ったら、ちょっとは焦ってくれるかな、って思ったんです。僕は、シルバー先輩が他の誰かと幸せになってたらって思うと、ガマンなんか、とてもできやしないから」
「そう、だったのか」
「ごめんなさい。先輩の気持ちを弄んで、許してもらえるとは思いませんけど」
俺は、デュースからすべてを聞いて、そして、改めて……彼の気持ちに、踏み込む決意をした。
「何……、ヤキモチを妬かせようとすることだって、時にはあるだろう。恋人ならば」
「へ?」
ほほ笑んで、ぽんと頭を撫でる。下手な笑顔だろうが、きっとデュースは分かってくれる。
「お前の心に、踏み込みたい。これからは、名前のついた関係で」
「い、いいんですか、こんな僕で……」
「お前がいい。……ずっと、お前のことが好きだった」
デュースの顔が赤く染まる。返事は、と急かす俺としどろもどろになるデュースのことを、しとしとと降る雨空が包み隠していた。
それから。デュースを寮の自室に招き入れた。同室の者には合間を見て今夜は留守にするように頼んだから、今日は2人でゆっくりと話ができる。
「ココアだ。マシュマロも入っている」
「ありがとうございます」
身体が冷えるだろうと、温めたマシュマロココアをデュースに差し出し、自分は眠らないようにと熱いブラックコーヒーを口にする。それぞれマグカップに入った飲み物をほとんど飲み干してしまい、一息ついたところで、話を切り出した。
「改めて、話をするが」
「はっ、はい」
俺のベッドに座るデュースの隣に座る。デュースはカチコチと身体をこわばらせてみせた。
「そんなに緊張するな。何も、取って食いはしない。……今のところは」
「今のところ、って!?」
「ふっ、冗談だ」
なんだよもう、とデュースが頬を膨らませたのを見て、わずかに笑んだ。
「まだ、雨は止まないようだな」
小鳥が遊びに来るから、開けっ放しの窓の外を眺める。ひさしの縁からこぼれる雨水が、まだ空模様が晴れないことを伝えていた。
「晴れていたら、星が見えただろう」
「星、見たかったんですか?」
デュースが不思議そうに尋ねる。俺の言いたいことはなんなのかと、探っているようだ。
「見たかった、というよりは。見られたら、話しやすいと思っただけだな。俺は、一番星を見ると、嬉しくなるから」
「一番星ですか? 確かに、見つけたらなんか嬉しくなりますけど」
「そういう、幼子のような話ではない。一番星を見つけると、お前のことを思い出すんだ」
「へっ? 僕?」
きょとんと驚いた顔をして、デュースは大きな目をさらに丸くする。
「ああ。一番星を見つける度に、思う。あの星はきっと、お前のように足が速いのだろうな、と。それで、他のどの星よりも早く、空に昇り輝こうとはしゃいでいるんだな、と。……すると途端に、だ。ただの星が、妙に可愛らしく思えてくる」
「な、何言ってるんすか、もう……」
つまりだな、と俺は続け、隣に座るデュースの手を取り、くちづけた。
「ただ、空を見上げ、星を見つけるだけでも、お前のことを考えてしまうくらい。お前のことが、ずっと好きでいたということだ」
「先輩……」
「……名を、呼んで欲しい」
「シルバー、先輩」
照れくさそうなデュースの目が、じっと俺のことを見つめる。どちらからともなく距離を近づけ、互いの柔らかな唇へと、くちづけあった。
「んっ、……」
「……デュース」
一度唇を離して、デュースに改めて問うた。
「お前は、俺と幸せになりたい、と言ったな。……お前の気持ちも、俺の持つこの気持ちと同じだと、勘違いをしてしまっていいということだろうか?」
「か、勘違いとかじゃ、ない、です。それに……」
「それに?」
「……好きとかじゃなかったら、こんな……き、キスとか、僕だって、さすがに、させない、です……」
ぷしゅう、と音を立てて、今にも沸騰してしまいそうなほど真っ赤な顔を見せるデュース。そんな姿が可愛くて、俺はデュースの身体をぎゅっと抱きしめた。
「大切にする。……今まで線を引いていて、すまなかった。少しでも気持ちを伝えるのなら、境界線を越える覚悟も必要だったろうに」
「い、いえ。僕も……嘘ついたりして、すいませんでした。淋しくて……先輩の、気を引きたかったんです。もし、これから先、シルバー先輩に恋人とかできたりして、他の人と幸せになったりしてくなら、それは、なんていうか、僕にとって、すごいモヤってすることだって思ったから……」
「そう、だったのか。……不安にさせたな」
抱きしめたまま、デュースの頭をぽんぽんと撫で、そのまま指先で髪を梳く。
「大丈夫だ。今、俺はお前しか見ていない。そして俺も、他の人でなく、お前と幸せになりたい。……そう思った」
だから、と告げる。
「これから先、いろいろと苦労をかけることもあるだろう。それでも、お前と歩んでいきたい。お前が、俺と共に歩みたいと、そう思っていてくれるのなら」
「もちろん、です。……シルバー先輩」
「……ありがとう、デュース」
デュースの身体を離し、改めて肩を寄せ合う。寒いだろうとデュースと自分の肩にブランケットをかけて、その中で指と指を絡め合わせた。
「もう少し、このままで」
「……はい」
雨の粒が、相変わらず窓硝子や地面を叩いている。俺は、それらがこの音を隠してくれるだろうと言い訳をして、何度もデュースの唇にくちづけた。
「んっ、ん……、せん、ぱい」
「取って食うつもりはなかったのだが……困ったな。そんなに、可愛らしい顔をされては」
「もう、何言ってるんですか……っ」
「本気だ」
とうとう、ベッドへとデュースを押し倒す。枕へと広がる群青色の短髪に、どきりと心臓が音を立てた。……まったく。困ったな、本当に。このままでは、獣になってしまう。
「デュース」
「!」
身体をこわばらせるデュースの頬に手を伸ばし、そっと指先で撫でる。それから頬と額にキスを落とすと、デュースの身体を抱きしめながら自分も横になった。
「今日はこれ以上しないから、安心してくれ。……獣だと思われたくはないからな」
「……ぼ、僕は別に……」
「大切にしたいんだ。分かってくれるな」
そう急くことでもない、と髪を撫でていれば、デュースはようやく、ほっと安堵したような溜め息をつく。そして、俺の胸に身体を寄せた。
「シルバー先輩、ドキドキしてる……」
「……当然だろう。お前のものも、伝わっているぞ」
「は、ずかしい、です……」
「いいだろう。……俺とお前だけの、秘密だ」
シーツと布の擦れあう音がやけに大きく聞こえて、余計に互いの緊張を高めている。だが、俺の眠気はこんなときでも容赦なく訪れてしまうものらしい。
「……ん……急に、眠気が」
「眠いなら、寝ても大丈夫ですよ」
「……すまない、もう少し、こうして、いたかったが……」
助かるような、惜しかったような心地で、俺はその眠気を受け入れていく。今度は、デュースの方が俺の髪を撫でてくれる番だった。……さらさらとした髪の間を指先で梳くような、優しい手つきが、心地いい。
「ん……デュース、明日、目覚めたら……」
「はい」
「教えて、ほしい。俺、に」
「何を、ですか?」
「これが、夢じゃ、ないか……」
「ははっ、はい、わかりました。……おやすみなさい、シルバー先輩」
「……おや、すみ……」
最後の気力を振り絞り、デュースにおやすみの挨拶をする。言い終えられたかどうかわからないうちに、俺の意識は途切れた。
窓の外は相変わらず灰色で、冷たい冬の雨が降り続いている。
……それでも。2人で眠るベッドの中は、ぬくもりに満ちていて、とても……幸せだった。
*おしまい
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