群青の雨と玩具の紫煙

おまけ:リグレットの後日談

 しとしとと静かな雨の降る夜、不思議と落ち着いた暖かい空気の中、火をくべた暖炉がパチパチと音を立てる自宅でひとり、俺は、鍵つきの日記帳を開錠して、机の上に開いていた。これは、俺のものではない。デュースの遺品整理を手伝った際、『これはシルバーくんが持っていて』と、日記帳の鍵と共にアイツの母親から渡されたものだ。指先でなぞった文字には、こう書かれていた。

『シルバー先輩』

 ――あの学園を卒業してから、俺のことをそう呼ぶのは、もう、ひとりだけになっていた。

 今でも、煙草に似せた煙をくゆらせ、瞳を閉じてその味を感じれば、デュースと最後に逢えたときのことを、交わした言葉を、思い出す。何度も繰り返して、反響する。俺はそれを、名残惜しんで噛み締める。――もしも本当にあのときに戻れたら、何を言って何をする、なんて、馬鹿な考えがよぎって、煙草の煙と共に目に沁みた。おかしいな、これは煙草に似せた玩具でしかないから、煙が目に沁みたりはしないはずなのに。ひとり静かな物思いに耽る夜は、今でもやはり時々こうなってしまうみたいだ。
 それで、視界は滲んでぼやけているのに、目の前にはあの日の時間が、空気の温度や、風の匂いまで、鮮明によぎるんだ。あの日から一度も、ただのひとときだって、忘れたことはない――

『シルバー先輩、今日もまた、薔薇の王国まで逢いに来てくれて、ありがとうございます!』
『気にするな。俺が、お前に逢いたくて逢いに来ているんだ。むしろ、もっとたくさん傍にいてやれなくて、申し訳ないくらいだ』
『ははっ、もう。ヴァンルージュ先輩みたいな立派な騎士になることが、先輩の夢なんでしょう? なら、僕に申し訳なくなんて思わなくていいんです。僕も先輩も、それぞれの叶えたい夢を追いかけてるんだから。他のことなんて考えてる暇はない、そうですよね?』
『……ありがとう、デュース。俺が好きになったのが、お前で良かった』
 俺はデュースの頬を指先で撫でてやり、顔を近づけてひとつキスをする。それから、渋い顔をした。
『お前、ここに来る前にまた煙草を吸っていたな? 味がするぞ』
『あはは……。バレちゃいました? ここに来る前、上の人に声かけられて、仕方なく……』
『まったく。身体に悪いと、いつも言っているだろう』
『すいません』
 苦笑いで返すデュースに、俺は言うんだ。
『……大事にしてくれ。身体も、心も。俺は、お前と共に、もっとたくさん、同じ時間を生きていたいと思っているんだ』
『先輩……』
『……その呼び方も、そろそろ聞き納めになるかもしれないな』
『えっ?』
『なあ、デュース。次はまた、俺から逢いに行く。そのときは―― どうか、シルバー、と。そう呼んでくれないか?』
 意味、分かるよな? そう尋ねれば、デュースはとびきりの笑顔でうなずいた。
『……はいっ、もちろん! 次逢うときまでに、練習しておきます!』
『ああ。楽しみにしている。そのときには一緒に、伝えたいこともあるんだ』
『えっ、なんだろう。気になるなあ。今じゃダメなんですか?』
『ふっ。それは次逢うときまでの、お楽しみだ』
 そうしてデュースの身体を抱き寄せると、ふっと、煙草の匂いがしたんだ。……アイツが死んでからの2年間、俺が吸い続けたのと同じものだ。

 それが、アイツと最後に交わせた会話。次も当然、元気な姿で逢えるものだと信じ切っていた、馬鹿な俺の、愚かな言葉の群れ。
 ずっと、考えていたんだ。初めてアイツを好きになった、星の流れる夜と同じ、流星の降りそそぐ夜に、これからも二人、どんな困難があっても、どんなに遠く離れていても、誓いを立て、共に励まし合い、これからも生きていく約束を申し出たいと願い、それに向けた準備をしていて。
 それで、ようやく逢いに行こうという計画を立てきった矢先に届いた、喪失の連絡。……叶わなかった誓いばかりを思い出しては、もっと早く俺がこんな気持ちを伝えられていたら、ひょっとするとデュースは、己の命を落とすような無茶をせず、もっと長く生きていける道を選んでくれたのではないかと、悔やんでも悔やみきれずにいた。――あの事件があるまでは。

 あの事件とは、デュースの姿を模したゴーストが、アイツの姿を使って、参っていた俺のことをおびき寄せていた事件のことだ。恐らく、俺の記憶か何かから、アイツの姿を引っ張りだしていたのだろう。きっとそれは簡単なことだったはずだ。俺は、デュースの面影を何よりも求めていたから。だから、最初のうちはすっかり騙されてしまっていた。俺は、亡くしたはずの恋人の姿に、その残酷で美しい幻に、目が眩んでしまっていたんだ。それで、セベクの止める声すら、俺には届いていなかった。だけど、セベクはそんな俺に戸惑いながらも、隣に立っていてくれた。本当にありがたいことだ。淋しさに参っていた俺の隣に、何もかもいつも通りのアイツがいてくれたから、そのことでかなり精神を健全に戻せたところがあるのだと、今振り返ればよく分かる。俺はアイツの兄弟子だから、セベクが俺の過ちを真似してしまわないように、ちゃんと手本を見せなくてはいけないという意識が働いたのも大きかったからな。
 それで、セベクのお陰でかなりまともに戻れて、ゴーストと別れようとした頃、俺は確かに聞いたんだ。これはセベクには言っていないことだが――俺がゴーストに連れていかれてしまいそうになったとき、確かに聞こえたんだ。セベクの叫ぶ俺の名前と同時に、もうひとり。
『シルバー、このっ、大馬鹿!! こっち来たら殴ってでも生き返らせるからな!!』
 だから、思い出すことができたんだ。俺にはまだ、守るものがある。支えてくれる人がいる。𠮟ってくれる人が、背中を押してくれる存在がある。そんな、大切な人たちに背を向けてまでアイツの幻を選ぶことは、それこそ向こうで待つデュース自身から、もう一度生き返り直してこいと、なんなら一発殴って怒鳴られて、この世に送り返されてしまうようなことなのだと。まだ俺にはこの世に残って、やるべきことがあると。

「そうだよな、デュース」

 デュースからの返事はない。まあ、当然のことだ。もし返事なんかすれば、その瞬間、俺はまた世界中のどこにでも、デュースの影を追い求めてしまうかもしれないからな。あのとき声が聞こえてしまったのは、うっかりとか、咄嗟に出てしまったとか、予定外のことだったのだろう。そういうそそっかしいところも、今はただ懐かしい。少し前までは、アイツとのことが日に日に記憶から薄らいで思い出になっていき、懐かしいと思うことさえも苦しかったが……そんな調子だから、まだ俺はアイツに心配をかけてしまっているのだろうなと、苦笑いをして煙草型の玩具を灰皿に放り込む。
 もう本物の煙草は必要ないから、あの日最後に吸ったのを最後に残した吸いかけの箱は、デュースの写真の前に遺灰と小箱と共に置いてある。アイツがたまに、俺の一服ごっこにでも付き合ってくれるように、と未練がましい願いをかけて。まったく、これではまたセベクやマレウス様、親父殿に心配をかけてしまうな。そんなことを考えてふっと笑ったところで、女性除けになればと薬指につけた(最近、なんだかよく声をかけられるようになったからな)、アイツの瞳によく似た色の指輪が、ひとつ煌めいた。俺はそれに、大丈夫だと言ってくちづける。

 目元を軽く袖で拭って、視線を再び日記に落とす。そこに綴られているのは、アイツが生きている間に出会った人たちとの、たくさんの思い出と、母親の話。それから、俺としてきた、いろいろなこと。
 初めの頃はいくら故人のものでも勝手に読むのはと躊躇していたが、そのうちデュースとの記憶が薄れていくことを恐れる気持ちの方が上回って、鍵を回して、少しずつ読んでいた。少しずつでなければ、読むことができなかった。この日記を読むときは、いつも袖で目元を拭うことになるから。ぱたぱたと落ちる涙で、紙を濡らして劣化させてしまわないようにと。
 それでもこの日記を開いてしまうのは、きっと、それも俺の未練なのだろう。デュースの命日の一日前で日記の記述は止まっている。

『7/6 今日も一日頑張って疲れたな! こんな日はシルバー先輩と話して、たくさん褒めてもらいたくなる。そういえばシルバー先輩、次に会えたら言いたいことがあるって言ってたな。あれからずっと気になって、いろいろ想像してる。実は、ひょっとしたら、僕にとって、日記に書くのすら恥ずかしいくらい、とびっきり嬉しいことを言ってくれるんじゃないか、なんて馬鹿なこと考えたりしてるんだけど…。うう、そわそわしてダメだ…早く答え合わせしてほしい! 次は、いつ会えるんだろう? そろそろ連絡が来るかな。早く、会いたいなあ。…なんて。淋しがってばかりいちゃ、ダメだよな。次に会うときもシルバー先輩、いや…もう、シルバーって呼ばなきゃ、だったよな。せっかく練習したのに、気を抜くとすぐこれだ。よしっ! 今度会うときもシルバーに胸張ってられるように、今は警察官として、しっかり皆を守ってくぞ! 明日もきっと頑張るから、見ててくれ! おやすみ、シルバー!』

 ――この『おやすみ』という言葉を目に入れる度に、まだデュースは世界のどこかで眠っているだけなんじゃないかと期待してしまいたくなるが、相変わらずデュースの夢は見られないし、彼の夢にも、当然渡れない。24才でその短い生涯を終えた彼の一生のうち、3分の1。16歳から24歳になるまでの、たった8年間しか愛してやることができなかった。それも、俺自身はいつも遠い国にいて、ずっと傍にいてやれたわけじゃない。そのことを思い返して突きつけられると、やっぱり苦しくて、こんなことならばもっと傍にいてやれば良かったと懐古の涙をこぼす夜だって、まだいくらでもある。アイツはそんな風に生きたことのすべてを後悔していないと、頭では分かっていて、それでも、なお。
 見ての通り、俺はまだアイツへの未練も淋しさも、完全に断ち切りきれてはいない。それでも、あの事件を経てからは、そんな夜を何千回何百回と繰り返しながらでも、今では案外すぐ傍にデュースがいて、俺のことを見守ってくれているんじゃないかと思えるような、そんな心地がしはじめていた。
 そうして好きなだけ涙をこぼして、最後には思うようになった。いつかアイツにまた逢える日は、俺のやるべきことはすべてやりきったぞと、笑って逢いに行きたい、と。
 さあ、そろそろ夜更かしはやめよう。美しい過去にばかり囚われず、今、守るべきもののために、明日への力を養わなくては。そうでなくては、アイツに胸を張って逢いに行けはしないから。そんな呪文を頭の中に唱え、日記を閉じて鍵をかけた。
 たったひとときの物思い。不思議と落ち着いた暖かい空気の中、しとしとと静かな雨の降る夜のことだった。

*おしまい

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