*精神病のような描写がありますが、実際の病態等とは一切の関係がありません。また、差別・偏見を助長する意図はありません。
*フィクションのため、治療法については正確な描写ではありません。
*ところどころ日本語として読みにくい描写がありますが、仕様です。
*センシティブ:絞殺等の殺人描写があります。苦手な方はご注意ください。
以上大丈夫な方はスクロール↓
……ここは、どこだ?
俺は一体誰で、ここで、何をしている?
『シルバー先輩』
足元の地面に、ポンとピアノの旋律のように雫が落ちたような音と、波紋が広がった。
ああ、そうだ。俺は、シルバーだ。敬愛する、親父殿の子だ。
ちゃぷちゃぷと、水音がする足元を搔き分けて進む。動く度に足の裏から波紋が広がる。どうしてここは水浸しなんだ? それに、不気味なほど真っ白な空間だな。
少し進むと、誰かが立っている。どうやら彼は、青年のようだ。短い群青色の髪を揺らし、こちらをじっと見つめている。
俺はそんな彼に近づいて、手を伸ばした。そして、何故か、そうするのが当然だとでもいうように、彼の首に手をかける。そして、手に力をゆっくりと込めた。
そうすると。彼は俺の手に手を重ね、そして、薄く開いた唇から言葉をこぼした。
『せん、ぱい』
俺は、彼のことをじっと見ていた。それ以上強く力を入れることもなく、弱めることもなく。
『やめ、て……』
息苦しそうな彼の声にハッと気が付いて、慌てて手を振りほどく。
そうすると……目が、覚めた。
……ここは、どこだ? 俺は一体誰で、ここで、何をしている?
二度目の疑問を、ひとつずつ潰す。俺は親父殿の子、シルバーだ。そう、さっきもそうだった。周囲は相変わらず不気味なほど白いが、先ほど見た空間とは違い、ここには壁と天井がある。身体を起こすと、俺の身体はベッドに寝かせられていたことに気が付いた。
腕には何かの液を注入する針が刺さっていて、サイドテーブルには缶コーヒー。蓋が開いている。中身はからっぽだ。
そこかしこから、消毒液の香りがする。どうやらここは*院のようだ。
*院? ……おかしいな。ここは、『***イン』だろう。
*我や*気をした人が、治療のために訪れ、時には滞在する施設のはずだ。
……何故だろう。知っている知識のはずなのに、ところどころモヤがかって思い出すことができない。
まあ、いい。俺がそこにいるのなら、俺は何か変なところがあるのだろうか。
*室、つまり部屋にいると、そのまましばらくした後、ほんのわずかな間を置いて誰かが部屋に増えた。
壁にあるドアという障害物を魔法の呪文もなく開き乗り越えて、彼は現れた。
「君は……?」
「……体調どうですか、シルバー先輩」
お見舞いに来ましたよ、と言って、彼は手に持っていた花を花瓶、そうガラスの、そんなことはどうでもいい、に活け始めた。
俺が驚いたのはそこではない。先ほど、多分夢だろう、彼は俺が見た夢の中で見た群青色の髪の青年とソックリなことだ。なら俺は彼の首を絞めないといけないのだろうか? 夢と同じように。
でも、俺はそれをしたくなかった。目の前で花瓶に花を生ける彼を見ていると、やたらと暖かい気持ちが胸の中から湧き上がって、彼をこの空間から失いたくないと思ったのだ。
「本当はヴァンルージュ先輩たちが来れたら良かったんですけど、今ちょっとディアソムニアの方バタバタしてるみたいで……。顔見せられなくてゴメン、って申し訳なさそうにしてました」
「親父殿」
「はい、そうですよ。先輩のお父さん、すごく心配してました。もちろん、セベクも、ドラコニア先輩も」
その名前たちには心当たりがある。顔と名前が一致する。すぐに思い浮かぶ。目の前の彼とは違って。
「なあ、ええと、君。俺は何かおかしなところがあって、ここにいるのか」
「……混乱してるんですね。大丈夫です、シルバー先輩。落ち着いて聞いてくださいね」
「ああ」
「先輩は、少し前に大変な目に遭ったんです。事故というか、事件というか。それで、その時のショックで、いくつか記憶を失くしてしまっていて、自分ではわけが分からない状態になっているみたいです」
「そう、なのか」
彼の説明は、しっくり来る。俺がいくつかの記憶をなくしているというのなら、確かにこの状況は分からなくもない。だが、どちらかといえば、なくしているというよりも、思い出せない、思い出したくもない方がしっくり来る気がしていた。
「お*者さんが言うには、軽い記憶の混濁は少し経てば落ち着くだろうって。だから、今、様子を見るために、少しの間、入*しているんですよ」
「……俺がここにいる理由は、とりあえず分かった」
では、君は? 俺が尋ねると、群青の彼は悲しそうな顔をした。気がした。
「僕は……」
だから、腕を掴んだ。そうしたら、群青の彼は、少しびくっと身体を震わせた気がした。怖くなって、ぱっと手を離した。
「話したくないなら、いい。悲しそうな顔を、しないでほしい」
「先輩?」
「何故か分からないが、君が悲しそうな顔をしていると、俺も、とても悲しくなる。だから」
「……優しいんですね、ありがとうございます」
僕は大丈夫ですよ、と群青の彼は言った。俺は、彼のことがとてもとても気になった。
「君は、俺の知り合いだったのか?」
「そう、ですね。知り合いではありましたよ」
「そうなのか。どんな関係だったんだ?」
「同じ学校の、先輩と、後輩でした」
「そうか」
どうにも、違う気がする。いや、合ってはいるのだが、何かが足らない、というような。
ずっとそうだ。俺には記憶も、情報も、何もかも足りないことだらけだ。
「それじゃあ、僕、今日はこの辺で帰りますね」
群青の彼が、帰ろうとする。俺はそれを慌てて、急いで引き留めた。
「ダメだ」
「えっ?」
「ええと。名前だ。名前を知らない。君の名前も分からないのに、帰してはダメだ」
「えっと、僕の名前、ですか? それは……」
「そうだ。それに、聞きたいことがまだある。君の、君の首を絞めたことがあるか、俺は」
群青の彼は、答える。優しく笑って、答える。
「ありませんよ。優しいシルバー先輩が、そんなことするわけないじゃないですか」
「なら、先ほど見たものは、やはり、夢……」
「夢、ですか? 見たんですか?」
僕の首を絞める夢。その言葉に、俺は、頷く。
「そっか。……嫌になるのも、当然かな。嫌いだとか、憎いって気持ちだったんですね」
「違う」
「え?」
「憎くない。そんなこと、思っていなかった。むしろ、傍にいてほしくて……締めたんだ」
「シルバー先輩……」
「……置いていかないでくれ」
群青の彼は、俺の頭をぽんぽんと撫でて、背中をとんとんと叩くと、また明日も来ますから、と言って、去ってしまった。……あやされてしまった。
立ち尽くしていると、キャア、と女の人の声がして、そっちを向くと、怒った顔の女の人が、何か喚いていた。
「どうして点滴を引き抜いているんですか! 血がこんなに出て……処置しますから部屋の中に入ってください!!」
女の人が俺の身体に何かしている間も、俺はずっと、群青の彼のことについて考えていた。
翌日。俺は、『ナースステーション』にいた。その言葉が何を指すのかを思い出そうとすると、やはりモヤがかかるが、とりあえずそういう単語だと認識はできるようになった。
「こちらがあなたの診断書です」
「ありがとう。部屋で読む」
『診断書』という紙を1枚受け取って、俺に与えられている真っ白な個室に戻る。
俺は何がおかしいのだろうか、それを知りたくて診断書を読んだ。
読んでみて、それで、俺は、その紙をびりびりに破り捨てて、ゴミ箱へやった。
そうだついでにこれを燃やしてしまおうとペンを取りだして杖のように振った。
そうするとあっという間に紙は燃えつきて、そうしたら天井から雨が降ってきた。
部屋の中なのに雨が降るような世界だったか、とぼうっとしていると、昨日怒っていた女の人が飛んできて、やっぱり何か叫んでいた。
『部屋の中は火気厳禁です! 火魔法も禁止! スプリンクラーが作動しますから!!』
とりあえずずぶ濡れになった俺を着替えさせて、びしょびしょになった部屋をなんとかするからしばらく外に出ていろと、俺は部屋を追い出された。
缶コーヒーがからっぽだったのを思い出して、俺は自動販売機で缶コーヒーを買った。
財布や少しの現金などは一通り持っているらしい。
群青の彼は、明日も来ると昨日言っていたから、今日も来るに違いない。
彼が平気で約束を破る人物でなければ、だが。
その時をただじっと待っていると、やがて彼は現れた。
「今日は外でひなたぼっこしてたんですか?」
「君は……」
そういえば、俺はまだ彼の名前を教えてもらっていないことに気が付いた。
だけど、何故か今はあまり聞く気にならなかった。自分で思い出したい、いや、思い出したくもないのだ。
「ちょっと髪濡れてますね。どうしたんですか?」
「部屋の中で魔法を使ったら、天井から雨が降ってきた。火の魔法だ」
「ああ……。ダメですよ、ここでは魔法を使ったら。そういう約束だったでしょう」
「そうだったのか。なら、あの女性には、悪いことをした」
あとで謝っておこう。
「どうですか、その後、調子は」
「少し、頭が痛い。君が帰ってから、君のことを何度も思い出そうとしてみたが、その度に、頭が痛くなって、眩暈がする」
「そう、ですか」
「気を悪くしないでくれ。君のことが、嫌いなわけではないと思うんだ」
「大丈夫ですよ」
それ以外には何かしましたか、と聞かれて、特には何も、と答えた。
「なら、本とか読んでみるといいのかもしれないですね。それなら危ないこともないですし、もし読んでるうちに眠くなったら、寝てしまえばいいし」
「そういうものか」
「そういうもんです。……あれっ? ひょっとして違う、か……?」
やはり、彼といる時間は心地良い。どこか空虚な退屈が流れているだけの部屋に一人でぼーっとしているよりも、彼と話している方が、楽しい。
例え名前さえ思い出せなくても、きっと今の俺はそう感じている。
だが、ひしひしと。何か、これ以上彼に近づいてはいけないと警告する何かが自分の中にあるような気がした。
「それじゃ、今日はこれで。楽しかったです、また明日」
帰ろうとする彼を、引き留めかける。ほんのわずかに彼の服の袖を引くが、彼は、そっと俺の手を外して、握った。
「また来ますから、ね」
……また、あやされてしまった。俺はその場にぼーっと立ち尽くしていたが、いつまで外にいるんですか風邪を引きますよと、部屋の片づけをしてくれたのだろう女性に引き戻され、空虚な部屋へと戻ることになった。
また翌日。
俺は、本でも読めば、と言われた通りに、図書室へ来ていた。
どれを借りればいいか分からなかったから、適当に気になったタイトルの本をカウンターに持っていくと、司書は怪訝な顔をした。……俺はそんなにおかしなものを借りたのだろうか?
部屋に持って帰り、本を読もうとすると、めくれなかった。
フチが真っ黒なもので固められていて、ページがない。妙な本だな。
まあ、いい。元々、本を読むのは得意でなかった気がするから、これで読んだことにしてしまおう。
うとうとしてきて、ベッドに倒れていると、ドアが開く音がした。
群青の彼かと思って身体を起こすと、そこには……よく知った顔ぶれが並んでいた。
「おお、シルバー。息災か?」
「親父殿。それにマレウス様、セベクも」
「ふむ、一時はどうなることかと思ったが……思ったよりも元気そうで、何よりだ」
「*院のスタッフに迷惑はかけていないだろうな!?」
口々に喋る家族たちに、俺は答える。
「かけた、かもしれない。というか、多大にかけている、気がする」
「なんだと!? まったく、あとでナースステーションに手土産でも持っていくべきか……」
「はっはっはっ、迷惑をかける元気があるようで結構なことじゃ! 謝罪や詫びはわしがいくらでもやってやるから、今は身体と心を休めることじゃな」
「はい、ありがとうございます、親父殿」
「時に……彼奴のことは、思い出せたのか?」
「彼奴?」
「……その様子では、まだのようだな。奴もまた、見舞に来ると言っていたが」
「ああ……。彼、というのは。群青の彼のことですか」
「群青? アイツをそう呼んでいるのか?」
「ああ。何も思い出せないし、名前も教えてくれないから、勝手にそう呼んでいる」
「思い出したいとは、思うか?」
「分からない、です。彼のことを大事なもののように思うのですが、同時に、思い出してはいけない気がする」
「そうか、そうか。まあ、無理はするまいよ」
そうして俺の家族たちは、一通り見舞ったあと、フルーツの詰め合わせなどを置いていくと、また折を見て様子を見に来ると去っていった。
群青の彼と、どうやら俺の家族も知り合いだったようだ。そして、家族は俺が彼のことを忘れていることを知っている。……一体、何があったのだろうか。俺と、彼との間に。
それを思い出そうとした瞬間、ドアから彼が来るのが見えて。
彼に手を伸ばそうとした俺は、真っ逆さまに、床に落ちた。
目が覚めると、男の人が俺の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫かい、シルバーくん」
「……先生」
「これ分かる? 今日の日付とか、自分の名前とか言えるかな」
「はい、ええと……」
俺は、尋ねられた質問に答える。
「うん、大丈夫そうだ。今度はベッドから落ちないように気を付けるんだよ」
俺の様子を軽く確認した『先生』は、忙しなく立ち上がり、次の『カンジャ』のところへ向かった。ここにいる者の中では、俺はそんなに『重くない』ので、短期の『ニュウイン』で済むらしい。ともかく、比較的早く家……寮に帰れる、ということではある。
そういえば俺はナイトレイブンカレッジという学校に通っていたのではなかったろうか。
学校の先輩後輩ということなのだろうか。今日、群青の彼が来たらそれを話してみようと思った。いつも世話を焼いてくれる『カンゴシ』の女の人に、尋ねた。
「あの、すいません。今日、彼は来てますか。群青色の……」
「ああ。彼なら、もう帰りましたよ。あなたが目を覚ます少し前に」
……そうか。今日はもう、来ていた、のか。俺が寝ていたばかりに、会えなかった。
会えなかったことを残念に思い、思った。
その日の夜、俺は眠れなかった。群青色の、彼に会いたいと思った。
会いに行こうと思って、ベッドから起きた。『点滴』の針は抜かなくても動ける方法を教えてもらった。それに、今はもう『点滴』をしていなくてもいいはずだ。俺が起きて、十分な食事を自分で摂れるようになったから、らしい。
自分で食事も出来るし、歩けるのだから、俺は大丈夫だ。彼に会いに行ってみようと思った。
*室を出て、暗い廊下を歩く。玄関の鍵が閉まっていたから、他の出入り口から出た。
白い息を吐きながら寒い外をうろうろしていると、群青の彼が暗闇から現れた。
『何してるんですか、先輩』
「君に会いに来た」
『今は夜中です。僕はいませんよ、お部屋に帰りましょう』
「でも、ここにいるじゃないか」
『それは本当に僕ですか?』
目の前にいるはずの、群青の彼に手を伸ばすと、手が透けて通った。幽霊だったのか?
『一目見て、満足したなら帰りましょう、ね。誰かに見つかる前に』
「……分かった」
幽霊になった群青の彼に宥められて、俺は部屋へと戻った。
それでも、眠れなかった。彼の言葉が焼き付いて。
『今は夜中です。僕はいませんよ』『それは本当に僕ですか?』
俺は間違いなく彼だと思ったのだが、彼は自分のことを否定していた。どういうことだ?
そんなことを考えようとしたのだが、人肌程度に暖まったシーツへ挟まれていると、やがて眠気がやってきてしまい、俺は意識を手離した。
気が付くと、真っ白な空間にいた。直感した。『ああまたこの夢か』。
ということは、この空間のどこかに群青の彼がいるのだろう。探した。
探して、見つけたものは。もう既に息がなくなって、眠り姫のように横たわる彼の姿だった。
「……俺が、やったのか?」
答える声は、当然ながらない。はずだった。
『そうだ』
「何?」
『お前が彼を殺した』
「誰だ!!」
振り向くと、そこには。俺にそっくりな男が立っていた。
「お前は誰だ!!」
『誰も何も、よく見てみろ。俺は、お前が殺した俺そのものじゃないか』
もう一度、死体の方を見てみると。そこに横たわっていたのは、群青の彼ではなく、俺自身の姿だった。
「……?」
奇妙な心地で、目が覚めた。どうにもよく分からない、不可思議な夢を見た気がする。
俺は……俺を、殺した? どういうことだ? それがなんで、群青の彼の姿をしていたんだ? ワケが分からない。今日、彼が来たら、このことを、話してみようか。
「あ、目が覚めましたか? うなされてるから、ちょっと心配でした」
「君は……」
目が覚めると、群青の彼が、ベッド脇のチェアに座ってリンゴを剝いていた。
俺は、今見た夢のことを忘れまいと、彼にすぐ事情を話した。
「そうだったんですね。夢で首を絞めていたのは、僕じゃなくて、先輩だった、って」
「どうにも、そうらしい。俺には、殺したい俺がいたのだろうか」
「それは、僕には分からないこと、ですけど……」
もしいたとしたら、今忘れてることら辺を抱えていた先輩なのかもですね、と彼は言った。
俺は、その言葉に、流れ星が降るような気持ちがした。
頭の中という夜空に、いろいろ様々な言葉が降り注いで、ひとつひとつに目を当てていられない。
でも、それでも見つめていたら、ひとつだけ分かった。
俺は彼のことが好きだったのだ。どうしようもなく。壊れてしまいそうなほどに。
「ああ……、君が好きなんだ」
「えっ?」
「なのに、どうして俺は、君のことを忘れたりしたのだろう。己を殺してまで」
絶対になくしたくないもののひとつだったはずなのに。
「僕には、先輩の本当の気持ちまではわかりませんけど、その。先輩が、そういうことをするのなら……何か、僕にとって良くないことがあったんじゃないかな、って思います。シルバー先輩は、僕が危ない目に遭わないためならなんでもしちまう、そういう人だったから」
何かのピースが、ハマった気がした。
「今日はもう少し、いてくれないか。君が誰か思い出せそうなんだ」
「……分かりました」
今日はあやされなかった。群青の彼は、もう少し一緒にいてくれるらしい。
部屋を出て、昨日、群青の彼に出会った広場へ連れていく。
「寒くないか? 昨日の夜、ここはとても寒かった」
「えっ、夜にこんなところにいたんですか?」
「君に会いに行こうと思って、部屋を抜け出した。君に怒られたから、部屋へ戻った」
「僕、昨日の夜はここへは来ていませんよ」
「そう、なのだろうな。分かっているんだ、本当は」
一呼吸置いて、俺は真実を受け入れる。
「俺が、おかしいんだな。時に君の幻を見て、君に執着して、なのに思い出せない、きっかけを手に入れようとするのに、いっこうに思い出そうとしない」
「先輩……」
「『先生』も、いろいろ治療法を試しているようだが……あまり、効果がなく思える。元に、戻れるだろうか?」
「……」
「……困った。呼びたくても、君の名前すら呼べやしない……」
もし俺の心が、何か、大けがのようなものをしているとして。そこへぐるぐるに巻き付けた包帯を取ったとき、醜く歪み切った傷跡だけが残っていたなら、君はどんな顔をするだろう。
きっと、笑ってはくれないだろうな。
すると。なんだか、急に身体が暖かくなった。群青の彼が、俺のことを抱きしめてくれていた。
「不安なんですね。先輩。……当たり前だよな」
僕がいるから、大丈夫ですよ、と彼は言った。なんだかそのぬくもりが懐かしくて、俺は、ぎゅっと赤子のように抱きしめ返した。
優しくとろりと見つめる彼の、孔雀色の瞳をじっと見つめていると、なんだか、魔法にかけられでもしたかのように、夢見心地に思えて、彼の唇にそっと吸い寄せられた。
そのままキスをすると、頭の中に、彼の名前が思い浮かんだ。
「……デュース」
「はい」
「デュース……!! ああ、俺はどうして、お前のことを忘れ、て……っ」
思い出せた喜びも、束の間。ひどい頭痛に襲われた。
「先輩!? シルバー先輩、しっかり……!!」
「頭、が、痛い……!! これ、は……?」
今お医者さんを呼んできますから、とデュースは走った。俺は、激しい頭痛に耐えきれず――その場に倒れ込んだ。
次に目が覚めたときは、また病室の中だった。……頭は、妙にスッキリしていた。
情報量と感情の強さに一時負けてしまったが、自分の状況が分かった、思い出せたからだろうか。今は夜中のようだ。デュースはもう帰ったのだろう。と、思っていたのに。
病室の外に出たら、そこにあるソファベンチでデュースがうたた寝をしていた。俺が起きるのを、待っていたのだろうか。
「デュース」
「ん、あ……先輩? もう大丈夫なんですか、良かった……」
「ああ、迷惑をかけた。だが、少し心と感情の整理をしたくて……聞いて、くれるか」
「はい。お付き合いしますよ」
俺たちは、誰もいない病院の休憩所で、話をすることにした。
「全部、思い出せたんですか?」
「ああ。必要なことも、忘れていた方が良かったことも、すべて、思い出せてしまった」
「言ってください。なんでも、聞きますから」
「……ああ」
まず、俺たちは概要を話した。始まりは、一件の事故だった。
恋人として、街へデートに出かけていた俺たちは、その帰り、ひょんなことから通行人を庇い、事故に遭ったらしい。飛び出していったデュースを庇った俺の打ち所は良かったはずだが、記憶の混濁と精神の動揺が見られるため、少しの間、俺は経過観察として入院することになった、と。
「僕のせいで先輩に大怪我させちまったって、申し訳なくて」
「……お前が謝ることはない。むしろ俺は、あのとき……」
自分を、殺したかったんだ。その言葉に、デュースの表情が凍る。
「どうして、ですか」
「順を追って話そう」
俺は、デュースのことが好きだった。もちろん、二人で出かけていたその日も、好きでたまらなかった。好きで好きで、どうしようもなくなっていた。デュースの同級生にも、上級生にも、これから先の未来できるであろう下級生にさえ嫉妬をする空想さえした。
そんな想いが日々膨れ上がって行って、完全にデュースを自分だけのものにしたい気持ちまで現れた。そのためには、デュース自身を傷つけることさえ厭わないような……。
俺はそんなことがよぎり、思いつく自分を嫌った。憎んだ。死んでしまいさえすればいいと思った。
――愛する想いが余ってデュースを傷つけるような俺になるくらいなら、死んでしまった方がマシだ。
そう思った俺は、きっと、事故を機として、本当に、『デュースの傍にいる俺』を消し、殺してしまおうとしたのだろう。俺が夢の中で首を絞めていた俺は、きっとソイツだ。それがデュースのように見えたのも、アイツのデュースに対する執着心が表に出たものだ。
そこまででいったん話を区切ると、デュースはふうと溜め息を吐いた。
「……そう、だったんですか……」
「だが、……無理だった。俺は、デュース、お前という存在の記憶すべてを失ってもなお、また、お前に惹かれてしまった」
これでは、元の木阿弥だ。同じことを繰り返すだけだ。そう思ったから、俺は、記憶を取り戻したのだろう。これ以上お前を傷つけるなと、警告するために。
「分かっているんだ。おかしいのは、俺だけなんだ。お前のために、自分を殺すのも、お前を、愛しいと思いすぎてしまうのも。頭では、理性では分かっているんだ、それでも」
俺がこのままでいれば、お前がいなければ俺が生きていけない状態のままでいれば、もうお前を二度と失わないで済むと、そう思ってしまったんだ。
「……なんと、醜い。こんな俺を、嫌いにならないでいてくれるのか、デュース……?」
懺悔するように、顔の前で手を組む。祈るように、ぎゅっと。そうすると、デュースは俺の手に手を重ね、はあ、と暖かな息を吹きかけた。
「先輩、まずは話してくれてありがとうございます。……なんていうか、えっと……。すごく大事にしてくれてたんだなって、思いました、とりあえず」
「デュース……」
彼の目は、優しくほほ笑んでいる。
「苦しまないでください、先輩。僕は、先輩が好きですよ。独占欲なんて、誰にでもあるんだから、そんなに思い詰めなくて良かったんです。僕なんか独り占めにしたいのなら、いくらでもそんな時間は作りますから」
「……だけど、俺はいつか、きっと、お前を傷つけてしまう……」
「傷ついたって、傍にいますよ。そんなにヤワな男じゃないです、僕は」
大人しくやられっぱなしの僕じゃないですし、やられたらやり返しますし、本当にイヤなことなら、先輩とケンカしてだって嫌だって言います。僕、意地っ張りなので、とデュースは笑った。
「だから、嫌いになんてならないですよ。大丈夫です。だって先輩は、やっぱり、すごく……優しい人だから」
僕を傷つけるくらいなら、自分を殺すってなんですか、それ。そんなにため込んじまう前に、ちょっとは甘えて、ワガママ言って、ガス抜きしてください。
ぽんぽんと、机越しに抱きしめて、頭を撫でられて、俺は、緊張の糸が一挙に解けた気がした。俺の中にある、仄暗い気持ちが、青く清められていくのが分かった。
「……ありがとう、デュース」
「また、弱ったときには頼ってくださいね。僕、先輩の傍にいますから、ずっと」
「ああ……頼もしいな」
それから俺たちは、少しだけ手を繋いで過ごして、一度別れた。
翌日の検査では、俺はもうどこにも異常がなかったらしく、すぐに退院できる手筈となった。すべてを思い出したことを、再び見舞いに来た親父殿にも伝えた。これでセベクとマレウス様にも、俺がすべてを思い出したことは伝わるだろう。
今回のことでは、デュースに大きな迷惑をかけてしまった。不慣れな独占欲に振り回されて、記憶まで失くしてしまうとは……不甲斐ない。
それでも。頼りになる恋人が隣にいてくれれば、俺は、不安定で、時々壊れながらも、それでも今はまだ、なんとか歩いていける気がした。
*おしまい
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